両者の耳と鼻を削ぐ!?戦国時代はケンカも過激、武田信玄「喧嘩両成敗」の実例と精神
喧嘩両成敗。兄弟や友達と喧嘩した時、両親や先生の口からよく聞かされました。「喧嘩をした者は、理由を問わず両方(あるいは全員)を罰する」
その単純明快な理屈には、有無を言わさぬ力強さを感じますが、その発祥の一つに武田信玄公の発した「甲州法度」が挙げられます。今回は戦国時代、武田家中で起きた実例を元に「喧嘩両成敗」が制定されるに至った経緯を紹介したいと思います。
取っ組み合いで耳と鼻を!?時は天文十六(1547)年、武田家中に、関東牢人の赤口関(あこうぜき)左門と、京方牢人の寺川四郎左衛門という者が仕えていました。互いに同じ新参衆という事で日ごろ親しくしていましたが、ある時、些細なことから口論になり、やがて取っ組み合いの喧嘩に発展。
最初は寺川が赤口関を取り押さえて優勢だったものの、赤口関が繰り出した必死の反撃で逆転勝利したのですが、両者共に一度も刀(脇差)を抜くことはありませんでした。
この一件は武田家中の噂となり、ついに信玄公の耳に入ります。赤口関と寺川の両名を呼び出し、現場を見ていた家臣たちから状況を聞き取った信玄公は、
「双方ともに『脇差心』なし」
と断じ、両者共に「耳と鼻を削いだ上で追放」という判決を下しました。
取っ組み合いの喧嘩で、なぜ信玄公はそこまでしたのでしょうか?
やるならとことん・脇差心とは?信玄公が取っ組み合いの喧嘩に対して、耳と鼻を削ぐという苛烈な刑罰を課したのは、こういう理由からでした。
「武士の喧嘩は、子供や町人のそれとは違い、一度やる以上は刀を抜かねば(=相手を殺さねば)ならない。殺すまでもないと言うなら、そもそも喧嘩をしてはならない」
「今回、寺川が赤口関を暫く取り押さえていたのは、誰かになだめて貰おうとする甘え=不覚である」
「一方の赤口関も、反撃する余裕がありながら脇差を抜かなかった(=寺川を殺さなかった)のは、取り押さえられたことを恥と思わず、その内誰かが仲裁してくれるだろう、という不覚である」
「お前たちが武士として脇差を差すのは何の為か。こんな不心得な者を許しては武田家の恥であるから、両名共に処断せよ」
常に脇差を差していること、いざ有事にはそれを抜かねばならないこと、そして何より、「軽々に(相手を殺す覚悟なしに)抜いてはならない」こと。
そうした「武士の心得」を、彼らは「脇差心」と呼び、日々胆に銘じていました。
結局、赤口関と寺川は雁坂峠(現:国道140号線・山梨県山梨市と埼玉県秩父市の境)を越えた辺りで「怨みを残しては後日の災い」とばかり、現場判断で斬られたそうです。耳と鼻は信玄公の命令通り削がれている筈なのに、首まで斬られては削がれ損ですね。
かくして定められた「喧嘩両成敗」さて、そんな事があって、その年(天文十六年)の6月に信玄公の定めた甲州法度の第十七条には「喧嘩両成敗」の項が盛り込まれた、と『続武将感状記』は伝えます。
喧嘩之事不及是非可加成敗但雖取懸於令堪忍之輩者不可處罪科
(意訳:喧嘩した者は理由を問わず成敗=処罰せよ。しかし、挑発されても我慢した者は無罪とせよ)
喧嘩をした者は、理由を問わず全員同じく処罰する。
平時ならともかく、戦場では喧嘩が起きると、それが陣中の大混乱に発展するリスクも高く、いちいち取り調べていられない事情があります。どちらも同罪!で即座に収拾するか、さもなくば両方とも斬らねばなりません。
先ほど紹介した赤口関&寺川の喧嘩は、平時だから耳と鼻で済ませた(少なくとも信玄公は)のでしょうが、これが戦場であればやはり斬り捨てていたものと思われます。
武士の喧嘩と「両成敗」の精神武士にとって喧嘩とは(仲裁を期待するような)パフォーマンスではなく、勝っても負けても死を覚悟すべき闘争に他なりません。だからこそ軽々と武力に訴えるべきではなく、常に死を念頭に置けばこそ、互いに敬意を払い、思いやる道徳が生まれます。
その一方で「軽々に手が出せない」のをいいことに、相手を侮辱・挑発する輩がいるのは、今も昔も変わりません。斬られこそしないものの、生活や社会的立場ゆえに手が出せない相手に対して、実に卑怯な振舞いが横行している昨今の社会を、信玄公が見たらどう思うでしょうか。
誰かを傷つける者は、自分も傷つく事を覚悟しなくてはならない。無益な争いを防ぐ「喧嘩両成敗」の精神が改めて見直される事を願っています。
※参考文献:菅野覚明『武士道の逆襲』講談社現代新書
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