北朝鮮の高官が「交通事故」で次々と死んでいく理由

まいじつ

北朝鮮の高官が「交通事故」で次々と死んでいく理由

2003年10月26日、突然交通事故で死亡した金容淳(キム・ヨンスン)は、日本でもなじみ深い人物だ。1934年まれで、20歳で金日成総合大学の国際関係学科を卒業し、1980年に朝鮮労働党の韓国担当書記となって以降、事故死するまで対南交渉に当たった。

1998年に金剛(クムガン)山観光開発で韓国からの協力を取り付け、00年の南北首脳会談における共同宣言署名の場にも登場した。

李哲奉(リ・チョルボン)は1980年代初頭から警察署長や都市経営相、鉄道省政治局長、江原道(カンウォンド)の党責任秘書を歴任したが、09年12月25日に交通事故死している。

李済剛(リ・ジェガン)は1930年生まれ。73年に朝鮮労働党中央委員会組織指導部に配属され、01年7月に同部の第1副部長(組織担当)になった。金正日総書記が事実上の部長だったためその片腕といわれた。

李は09年1月8日に金正日から「正恩後継」を聞かされた人物だったが、正恩が最高指導者の地位を継承する直前の10年6月2日に交通事故でこの世を去る。李済剛の強力なライバル張成沢(チャン・ソンテク)が暗殺を命令したというのが定説だ。

金容淳の後継者となった金養建(キム・ヤンゴン)もやはり事故死している。養建も対南政策の最高職位である党統一戦線部長の要職に就いた。担当時期は、韓国の対北朝鮮融和策「太陽政策」が、00年代半ばに絶頂を迎え、その後保守回帰によって崩壊していった時代だった。

取り巻きによる権力闘争の結果か

「これら交通事故を装った暗殺がトップの金正恩の命令かというと、その可能性は極めて低いでしょう。北朝鮮の支配者ならば、張成沢のようにいつでも法廷で死刑判決を下すことができ、大衆の面前で処刑することができます。処刑できない場合でも正日の異母弟金平日のように降格や国外追放、収監などさまざまな手法で、自由自在に粛清することが可能です。交通事故死を装った謀殺は、最高権力者を取り巻くエリート間で起きている権力闘争の結果と考えるのが自然でしょう」(北朝鮮ウオッチャー)

北朝鮮で生き延びるには、党内序列2位、対外的には国家元首の金永南(キム・ヨンナム)のように毒にも薬にもならない生き方を貫かなければならない。

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