鎌倉幕府滅亡のとき、なんと65回もの突撃を繰り返す激戦だった (2/3ページ)

Japaaan

果たして5月18日、攻め込んで来た新田軍の部将・堀口三郎貞満と大島讃岐守守之を相手に激戦を繰り広げ、『太平記』では一昼夜の間に65回もの突撃を敢行したと伝えています。いくら後がないとは言え、その激しい戦いぶりは、追い詰められた幕府軍の悲壮感、そして守時の凄絶な執念が伝わって来るようです。

ちなみに、守時らの奮戦を伝える石碑が、湘南モノレール線沿い(湘南町屋駅~湘南深沢駅間)に佇んでいます。

洲崎での最期・忠臣らの殉死

65回の突撃によって押しに押しまくった守時らの軍勢は、そのまま化粧坂を攻めている新田本軍(大将・新田義貞ら)の背後を衝こうと進撃したものの、洲崎の陣出(現:鎌倉市寺分周辺)まで到達したところで衆寡敵せず力尽きてしまいます。

守時は「ここは一度、地の利がある巨福呂坂まで引き返し、態勢を立て直しましょう」という侍大将・南条高直らの進言を容れる事なく自刃。高直や守時の嫡男・益時ら90数名も殉死(後追い)しました。

ちなみに、守時らの自刃によって勢いを取り戻した新田軍は巨福呂坂まで攻め込みましたが、その天険ゆえに攻め落とせませんでした。

あの時、守時が巨福呂坂まで一時撤退していれば、鎌倉幕府の命運は少し変わっていたかも知れませんね。(結局、史料によって諸説あるものの、新田義貞は極楽寺坂or稲村ヶ崎から防衛線を突破、鎌倉へ乱入しました)

往時を今に伝える“泣塔”伝説

泣塔(筆者撮影)。この背後のやぐらに五輪塔が納められている。

かくして鎌倉幕府は滅亡しましたが、その23年後となる南北朝時代の文和五(1356)年2月20日、陣出の丘に石造りの供養塔が建立、いつしか“泣塔(なきとう)”と呼ばれるようになりました。

その背後には鎌倉地方に特有の墓である“やぐら”が掘られ、地域住民が納めたであろう大小の五輪塔が現存しています。

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