鎌倉幕府滅亡のとき、なんと65回もの突撃を繰り返す激戦だった (1/3ページ)
一(1)味(3)さん(3)ざん(3)……の語呂合わせで覚えた方も多いと思いますが、元弘三(1333)年5月22日、新田義貞らの侵攻により、鎌倉幕府は滅亡しました。
学校の授業では(時間の都合もあるのか)随分あっさりと負けてしまったかのように駆け足で紹介され、意味も解らないまま「建武の新政」なる単語の暗記に移っていきましたが、実際の戦闘は、そんなにあっさりでもなかったようです。
新田義貞公肖像(狩野探幽原画・小川破笠写、福井市足羽山・藤島神社蔵)。
新田義貞らによる鎌倉攻めは大きく三方面(極楽寺坂、化粧坂、巨福呂坂)から行われたと伝わりますが、今回はその一方面である巨福呂坂の戦いを紹介したいと思います。
死闘六十五回!赤橋守時の奮戦
湘南モノレール線沿いに佇む洲崎古戦場碑(筆者撮影)。 赤橋守時らの奮戦ぶりを今に伝える。
巨福呂坂(現:鎌倉市山ノ内)を守る幕府側の大将は、得宗・北条氏の一門である執権・赤橋相模守守時(あかはし さがみのかみ もりとき)。
本来なら、こんな最前線に出るべき身分ではないのですが、去る5月に妹婿である足利高氏(後の尊氏)が幕府に叛旗を翻したせいで肩身が狭くなり、その疑いを晴らすため、決死の覚悟で臨んだと言われます。