集団処刑、熱湯漬け拷問…そして島原の乱、勃発。日本におけるキリシタン弾圧の歴史 (3/3ページ)
天草四郎の想像図
1637年、飢饉や重税、キリシタン弾圧に苦しんでいた島原・天草地方の領民約3万7000人が廃城となっていた原城に立てこもるという一揆を起こしました。島原の乱です。一揆軍のリーダーは16歳の益田四郎時貞。通称、天草四郎でした。
島原の乱が起きた島原はキリシタン大名・有馬晴信の領地であったため、キリシタン文化が栄え、領民ほぼ全員が熱心なキリスト教の信徒でした。
一揆軍は手強く、幕府軍は力攻めで城を落とすことは不可能と判断し、兵糧攻めにしました。その結果、88日目で原城は落城。女性や子供も含む、一揆軍は皆殺し。リーダーの四郎も討ち取られました。
1992年に行われた原城跡の発掘調査では大量の人骨と十字架、ロザリオの球といったキリスト教の聖具が多数発掘されています。
島原の乱の終息後、幕府はキリスト教の禁教を強化。鎖国政策も進め、キリスト教の一切を遮断しました。そのような状況下でも、キリスト教の信仰を守り続けていくことを選んだ「潜伏キリシタン」。彼らがその信仰を告白したのは、250年余り先のことでした・・・
次回に続きます。
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