「祈る」とは、賽銭などの対価としてご利益を期待することを言うのだろうか

心に残る家族葬

「祈る」とは、賽銭などの対価としてご利益を期待することを言うのだろうか

地震、豪雨、災害レベルの猛暑と、自然が猛威を奮っている昨今である。どれほど科学が発達しても自然の力の前にはいかに無力であるかを思いしらされる。こうした災害による理不尽な惨状を目の当たりにして「神も仏もあるものか」「神様なんていない」と嘆く声がある。それは魂の叫びであり、その思いを否定することなどできない。しかし、そもそも神様とは手放しに我々は守ってくださり、ご利益を与えてくださるありがたい存在なのだろうか。沈黙する神へ疑いを抱く一方で、残骸の前に立ち、手を合わせ祈る人たちもいる。この「祈り」とは何に向けられているのか。「神」とは「祈り」とは。

■本来の「神」と畏敬の念

筆者は以前より「自然を大切に」「自然を守ろう」などのスローガンに素直になれないものがあった。この言葉自体は正しいことではある。しかしどこか上から目線だ。「自然保護」などという言葉はその最たるものである気がする。ひとたび自然が牙を剥けば、我々から全てを奪い、飲み込む。人間ごときが自然を保護するなど傲慢不遜の極みではないか。天地自然とは本来恐るべきものなのである。我々は自然の微妙なバランスの上に生かされているのだ。

このような人智を超えた存在に対し、古の人たちはそこに天地(あめつち)の神を見た。そして畏れ、ただただお鎮まり下さるよう祈った。その一方で神々は太陽の光、雨水、肥沃な大地と、豊かな恵みをもたらしてくれる。収穫した作物を神々に奉納し感謝の念を捧げ、人々はまた祈った。

このように「祈り」とは神仏への畏れと、自分たちが生きている、生かされていることへの感謝の気持ち=「畏敬の念」を表す純粋なものであった。しかし現代は「祈り」の意味が忘れられているように思われる。


■神様は自動販売機なのか

我々が人智を超えた存在に生かされていることは、現代の科学文明でも何ら変わることはない。不作に喘ぎ、水不足に悩む。雨が降ることを待つ。宇宙開発、DNA操作、AIなどと誇っていても、自然の怒りに怯え、自然の恵みを待つこと数千年、相変わらず古代のままなのであった。ただ古のように「畏敬の念」をもって神仏に祈ることは少なくなった。

経済中心の現代では神仏を、賽銭やお守り代の対価にご利益を受けとる自動販売機のように捉えているように思える。お賽銭を奮発し、人気のパワースポットで話題になっているレアなお守りを買うため行列を作る。その目的は「縁結び」「合格祈願」「交通安全」などのご利益だ。まさに自動販売機である。そのような人たちのどれほどが、自分たちが生を受けた地元の神様を日ごろより「畏敬の念」を持って詣でているであろうか。

また一方で「祈り」の科学的、心理学的な効果などを説く向きもある。しかし「祈り」の本質はご利益、効果などを求める即物的なものではない、「畏敬の念」という純粋な心にあると筆者は考える。

伊勢神宮では正宮に参拝する際に個人的「お願い」をしてはならないとしている。世界平和などの公の願いや、神宮に訪れることがことへの感謝、つまり自分がいま生きていることへの感謝の念を捧げるのである。ご利益を担当する神様も鎮座してはいるが、神道の最高位は純粋な「祈り」の意味を守ろうとしているのである。

■「祈り」の場としての葬儀

我々が、純粋な「祈り」を捧げる貴重な場が葬儀・墓参であるといえる。他者の葬儀で、他者のために祈る心持ちに損得はなく、ただただ瞑するのみである。そこにあるのは、個人的なお願いでもご利益を期待するでもない、神仏へ捧げる心と同じ「祈り」である。「祈り」とは対価などを期待せず、畏れ敬う心を捧げるものなのだ。

例え社会的な義理による参列であったとしても、お焼香を薫じ、手を合わせ、「祈り」を手向ける一時は、わずか数秒であっても純粋な、澄みきった「祈り」の時間である。この刹那の「祈り」は旅立つ霊への何よりの選別となるだろう。

■神仏に向かう姿勢とは

そうはいっても我々は中々、自動販売機的思考から脱することができない。筆者とてそうである。幸せになりたい、不幸にはなりたくない。それが人間である。その思いは切実であり、決して軽んじることはできない。しかし本来神様は自動販売機ではないことは学ぶべきだろう。「畏敬の念」が無い人間とはつまり傲慢無知な人間ということだ。神道では「清明心」(きよきあかきこころ)=澄み切った心を至上とする。例えご利益を期待するとしても一瞬でも純粋な気持ちで神仏に向かい合うべきである。

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