「祈る」とは、賽銭などの対価としてご利益を期待することを言うのだろうか (1/2ページ)

心に残る家族葬

「祈る」とは、賽銭などの対価としてご利益を期待することを言うのだろうか

地震、豪雨、災害レベルの猛暑と、自然が猛威を奮っている昨今である。どれほど科学が発達しても自然の力の前にはいかに無力であるかを思いしらされる。こうした災害による理不尽な惨状を目の当たりにして「神も仏もあるものか」「神様なんていない」と嘆く声がある。それは魂の叫びであり、その思いを否定することなどできない。しかし、そもそも神様とは手放しに我々は守ってくださり、ご利益を与えてくださるありがたい存在なのだろうか。沈黙する神へ疑いを抱く一方で、残骸の前に立ち、手を合わせ祈る人たちもいる。この「祈り」とは何に向けられているのか。「神」とは「祈り」とは。

■本来の「神」と畏敬の念

筆者は以前より「自然を大切に」「自然を守ろう」などのスローガンに素直になれないものがあった。この言葉自体は正しいことではある。しかしどこか上から目線だ。「自然保護」などという言葉はその最たるものである気がする。ひとたび自然が牙を剥けば、我々から全てを奪い、飲み込む。人間ごときが自然を保護するなど傲慢不遜の極みではないか。天地自然とは本来恐るべきものなのである。我々は自然の微妙なバランスの上に生かされているのだ。

このような人智を超えた存在に対し、古の人たちはそこに天地(あめつち)の神を見た。そして畏れ、ただただお鎮まり下さるよう祈った。その一方で神々は太陽の光、雨水、肥沃な大地と、豊かな恵みをもたらしてくれる。収穫した作物を神々に奉納し感謝の念を捧げ、人々はまた祈った。

このように「祈り」とは神仏への畏れと、自分たちが生きている、生かされていることへの感謝の気持ち=「畏敬の念」を表す純粋なものであった。しかし現代は「祈り」の意味が忘れられているように思われる。


■神様は自動販売機なのか

我々が人智を超えた存在に生かされていることは、現代の科学文明でも何ら変わることはない。不作に喘ぎ、水不足に悩む。雨が降ることを待つ。宇宙開発、DNA操作、AIなどと誇っていても、自然の怒りに怯え、自然の恵みを待つこと数千年、相変わらず古代のままなのであった。ただ古のように「畏敬の念」をもって神仏に祈ることは少なくなった。

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