もうすぐ甲府開府500年! 山梨県の中心を甲府(こうふ)と命名したのは誰?どんな意味があるの? (2/3ページ)
躑躅ヶ崎の館に入った信虎公は、この地を「甲府」すなわち「『甲』斐国の『府(つかさ)』」と名づけたのでした。
「府」には役所や中心地などの意味があり、甲州盆地のド真ん中に鎮座して「これから甲斐国を統一するぞ!」という信虎公の意気込みが感じられます。
(※当時、甲斐国には武田家に従わない国人衆がゴロゴロいる上、隣国駿河の今川氏、相模の北条氏らも虎視眈々と狙っていました)
時に信虎公は数えで22歳、いかに戦国乱世とは言え、ケタ違いなスケールの持ち主だった事が偲ばれます。
その翌々年(大永元1521年)に生まれた嫡男・信玄公の大活躍、その跡を継ぎながら滅亡した勝頼公の死闘など「武田三代」の物語に胸を沸かせ、その末路に涙した男の子は多いことと思われますが、当然ながら武田氏の滅亡後も、甲府は今日まで受け継がれていきます。
「人は城、人は石垣……」 つなぐ歴史 かがやく絆
武田氏が滅亡してから300余年の時を経た大正八1919年、その跡地には信玄公をお祀りする武田神社が創建され、今でも多くの参拝者が訪れています(※武田神社も、来年で創建100年を迎えます)。
かく言う筆者もお参りさせて頂きましたが、武田神社の前に甲府開府500年記念事業の一環として(仮称)史跡武田氏館跡ガイダンス施設の整備工事が行われていました。
