もうすぐ甲府開府500年! 山梨県の中心を甲府(こうふ)と命名したのは誰?どんな意味があるの?

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もうすぐ甲府開府500年! 山梨県の中心を甲府(こうふ)と命名したのは誰?どんな意味があるの?

夏休みに甲州(山梨県)へ来てみたら、甲府駅の改札前にカウントダウンの電光掲示板がありました。

「2019年甲府は開府500年を迎えます」「こうふ開府500年 開幕まで あと138日」

その下には甲州名物などを表現した家紋状のマークが整然と並べられ、最後に「つなぐ歴史 かがやく絆 こうふ開府500年」というスローガンで締めくくられていました。

甲州名物・幟旗バージョン。どれが何だか、わかりますか?

さて、今から500年前、甲府は誰が開いたのでしょう。

甲斐の中心で野望を叫ぶ・武田信虎、躑躅ヶ崎へ

武田信虎公肖像(武田信廉画、大泉寺蔵)

時は永正十六1519年、甲斐国の守護大名・武田信虎(たけだ のぶとら :武田信玄の父)が守護所を武田家代々の石和(現:笛吹市石和町)から川田(現:甲府市川田町)を経て、躑躅ヶ崎(つつじがさき 現:甲府市古府中)に新築した館に移転。

躑躅ヶ崎の館に入った信虎公は、この地を「甲府」すなわち「『甲』斐国の『府(つかさ)』」と名づけたのでした。

「府」には役所や中心地などの意味があり、甲州盆地のド真ん中に鎮座して「これから甲斐国を統一するぞ!」という信虎公の意気込みが感じられます。

(※当時、甲斐国には武田家に従わない国人衆がゴロゴロいる上、隣国駿河の今川氏、相模の北条氏らも虎視眈々と狙っていました)

時に信虎公は数えで22歳、いかに戦国乱世とは言え、ケタ違いなスケールの持ち主だった事が偲ばれます。

その翌々年(大永元1521年)に生まれた嫡男・信玄公の大活躍、その跡を継ぎながら滅亡した勝頼公の死闘など「武田三代」の物語に胸を沸かせ、その末路に涙した男の子は多いことと思われますが、当然ながら武田氏の滅亡後も、甲府は今日まで受け継がれていきます。

「人は城、人は石垣……」 つなぐ歴史 かがやく絆

武田氏が滅亡してから300余年の時を経た大正八1919年、その跡地には信玄公をお祀りする武田神社が創建され、今でも多くの参拝者が訪れています(※武田神社も、来年で創建100年を迎えます)。

かく言う筆者もお参りさせて頂きましたが、武田神社の前に甲府開府500年記念事業の一環として(仮称)史跡武田氏館跡ガイダンス施設の整備工事が行われていました。

同施設は平成三十一2019年4月オープン予定ですが、信玄公をはじめ武田氏の歴史を学べる場所が増えることを、今からとても楽しみにしています。

「つなぐ歴史 かがやく絆 こうふ開府500年」

甲斐という国名は「交(か)い」すなわち多くの人々が行き交ったことに由来すると言われ、険阻な山々に囲まれているからこそ、より広い世界を夢見た甲州商人たちが往来し、また豊かな自然や独自の文化に惹かれた(筆者のような)人々が多く訪れるのでしょう。

かつて「人は城 人は石垣……」と詠んだ信玄公をはじめ、甲斐の国で歴史を受け継ぎ、絆をはぐくむ人々と共に、甲府の地が輝かしく幸(さきわ)うことを願っています。

参考:こうふ開府500年記念事業公式ホームページ

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