一体どういうこと?源頼朝のお墓になぜか刻まれた薩摩藩主・島津氏の家紋「轡十文字」の謎

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一体どういうこと?源頼朝のお墓になぜか刻まれた薩摩藩主・島津氏の家紋「轡十文字」の謎

はじめに・刻まれた轡十文字

頼朝公のお墓。今も献花が絶えない。

鎌倉幕府を開いたことで有名な源頼朝公。頼朝公のお墓は鎌倉市西御門にありますが、今も国内外より多くの方が参詣され、頼朝公の遺徳が偲ばれます。

さて、頼朝公のお墓を観察すると、源氏の家紋として有名な「笹竜胆」の他に、丸をタテヨコに区切った「轡十文字(くつわじゅうもんじ)」の家紋が刻まれています。

頼朝公の墓石に刻まれた「轡十文字」。

おなじみ「笹竜胆」紋、こちらは新しいもの。

これは一体、どういう事でしょうか。

「頼朝公の子孫」?島津氏からの援助

実は江戸時代、幕末期になると鎌倉はすっかり寂れ、頼朝公のお墓も荒れ放題となっていたようです。そこへ時の薩摩藩主・島津重豪(しまづ しげひで)が頼朝公のお墓を整備したため、島津氏の家紋である「轡十文字」を刻んだ、と伝わります。

島津重豪による寄進が記された石碑。最左列に「薩摩中将重豪」とある。

地元民としてはありがたい限りですが、どうして鎌倉から遠い薩摩藩主が、わざわざ頼朝公のお墓を整備してくれたのでしょうか。

実は、島津氏の祖先である島津忠久(しまづ ただひさ)は頼朝公の隠し子だった?という説があります。

尚古集成館所蔵・伝島津忠久肖像。

それが惟宗(これむね)家へ養子に出され、やがて薩摩へ移って島津氏を称した、と言われています。

つまり、島津氏は「頼朝公の子孫だから」とお墓を整備する事で、自分たちが「源氏の子孫である」という既成事実を固めたかったためとも言われており、単なる善意だけではない思惑が窺われます。(※もちろん、地元民からすれば、それでも十分にありがたいと思っています)

薩摩へ行った島津忠久のお墓が、なぜ鎌倉に?

その島津忠久のお墓は、頼朝公のお墓から右奥に続く山道の少し先にあります。
(※山道は整備されていないため、参詣される方は北条義時の法華堂&お墓跡からの迂回ルートをおすすめします)

急な石段の上に山肌をうがった鎌倉地方特有の墓地「やぐら」が三つ並んでおり、その右端が島津忠久のお墓と伝えられます。

ちなみに中央は頼朝公のブレーンであった大江廣元、左端はその四男で後に中国地方の覇者となる毛利氏の祖先・毛利季光のお墓です。

しかし、お墓と言っても、鎌倉の地で亡くなった可能性の高い大江廣元はともかく、薩摩に行った島津忠久、中国地方へ移った毛利末光が亡くなった後、わざわざ遺体を鎌倉まで運んで埋葬したとは、少し考えにくいです。

恐らく、後世(頼朝公のお墓を整備した同時期)の人々が彼らの功績を称えようと「頼朝公との近さ」が感じられる場所に改めて(遺体とは別の)お墓を造営することで、その偉大さを後世に伝えたかったのでしょう。

その意図は、彼らのお墓がある山のふもとにある北条義時の法華堂&お墓の入り口に立つ石燈籠に刻まれた「長(州)藩」の文字と、毛利氏の家紋「一文字三ツ星」からも察せられます。
(※長州藩主である毛利氏の出自は島津氏よりも明らかですが、彼らもまた祖先を大切にする思いが強かったのでしょう)

終わりに・薩摩と長州「武士の矜持」

頼朝公を称える献詠碑。境内にて。

頼朝公のお墓とその周辺を調べると、少なからず薩摩・長州の両藩が影響を与えていることが分かります。

これは鎌倉幕府が滅亡した元弘三・1333年から500年以上の歳月が経った幕末期にあってなお、頼朝公が「武家の棟梁」として武士たちの心に君臨し続けたことを意味します。

明治維新に多大な貢献を果たした彼らの原動力は、関ヶ原(敗戦)の屈辱もさることながら、「頼朝公との近さ」すなわち泰平の世にあってもサラリーマン化(堕落)を拒み続けた「武士の矜持」もあった事でしょう。

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