【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第22話
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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第21話 ◾文化八年、二月(4)国直が芳三郎を居候させはじめたという噂は、すぐに工房内に広まった。
「おい芳坊、国直のどこがいいんだ」
国直と仲の良い国丸と国安が寄ってきて、声をひそめて訊いた。国安と国直は同い年、国丸は一つ下で、入門時期もほぼ同時である。
三人とも門下で有数の筆達者で、「歌川の三羽烏」ともてはやされた。
歌川国安「日本橋魚市繁栄図」ボストン美術館
国安「新版浮絵 両国橋夕涼之図」ボストン美術館
歌川国丸「満月に美人」ボストン美術館
国丸「雪中に美人と犬」ボストン美術館
「絵が上手くて、強そうなところ?」
芳三郎が素直に答えると、二人はぶっと噴き出した。
「お前、本当に国直の稚児なのか」
「それともこいつ、意味分かってねえのか」
「おいてめえら」
国直は二人にげんこつを落とした。
「何が稚児だ。変な事吹き込むな。こいつア純粋に絵が好きなだけだ」
「ははあ、何にも知らねえのか。だがそれじゃあ良い絵は描けめえな」
「ああ。描けめえよ。あれを知らねえことにアな」
国安と国丸のひそひそ声に、芳三郎はすぐ飛びついた。
「兄さん、あれってなんだ!おいらに教えつくんねえ」
二人は顔を見合わせて、
「よし、それならまず、その可愛らしい前髪を落とすが先でエ!」・・・・・・
考えてもみればすでに十六にもなっているものを、勘当されて烏帽子親もおらず、元服という儀式自体すっかり忘れ去られたまま日々が過ぎている。
こうして芳三郎は、急きょ元服することになった。
声を掛けても頑なに顔を出さない両親の代わりに、豊国が烏帽子親になって前髪を落とした。
その日工房に出ていた門弟たちは国貞を除いて全員が顔を出し、元服の儀の一切を見守った。
前髪を落とした芳三郎が顔をあげると、兄弟子たちが自分を取り囲んでにこにこしていた。
「こりゃアなかなか、見れたもんだぜ」
「悪くねえな」
「役者みてえな二枚目よりもちょいと面白えくらいの顔が可愛げがあって女にウケがいい」
「ああ、これア可愛がられらア」
「眉の間にちょいと険のある若い後家さんなんかが、こう、つっと袖を引いて、艶いた声で『あら芳ちゃん』、なんつってな!ガハハ」
「おめえの想像力にはいつも感服すらア」
「筆下ろしはやっぱり吉原(なか)かな。早々に済ませてやらねえとな」
「忙しくなるぜ畜生!」
門弟たちが嬉々として話すのを見て、豊国が嘆いた。
「てめえらア結局悪所の話か。わっちゃアこんな助平養成所を開いた覚えはねえぞ!」
国丸がすかさず手を挙げて、
「父っつぁん!父っつぁんのせいじゃアありやせん。俺たちゃたまたま、本当にたまたま、助平なのが揃っちまっただけでさア」
「そうか!そりゃろくでもねえ偶然だな!」
豊国は苦笑し芳三郎を振り返った。
「芳、良かったな。ここにいりゃア女の事なら滅法心強いようだぜ。見回してみろ、絵筆は二流三流でも、そっちの方面では一流の褌親(ふんどしおや)がずらりと雁首揃えていやがらア」
豊国の言葉に、全員がどっと笑った。
「お前か?」
「アア、違げえねえ。兄さんの事だな」
「俺ア違げえぞ、筆も一流でい」
弟子たちが二流三流の汚名を押し付けあっていると、ついに豊国の雷が落ちた。
「てめえら全員だ!」
「あいすいやせん、お父っつぁん!」
全員が声を揃えて謝った。
「よおし!芳も今日から、俺の描きおろしの艶絵見放題だな!」
お調子者の国安が間髪入れず声を上げた。隣の国丸も、
「俺も引き出しに仕舞ってあるぜ、まだ誰にも見せてないとっておきの艶絵」
顔を見合わせてにやにやする二人は暇さえあれば腕を奮って艶絵を描き、門弟の間で回した。同時に二枚回す時にはどちらの艶絵の評判が良いかという賭けまでして遊んでいる。
「安と丸ア、変な事ア教えるなよ」
「あい、任せてくだせえ父っつぁん!何をどこに差し込むてえところからきちんと順序立てて仕込んで行きますから!」
豊国のげんこつが落ちて、二人は静かになった。
「父っつぁん、しかして芳三郎の名はどうするのです」
「わっちゃアもう決めてるぜ」、
豊国は一呼吸置いて、名をしたためた半紙を開いた。そこにあった名は、
「孫三郎だ」。
ホウ、と弟子たちは声を上げた。
「なんでまた、孫三郎です」
「そりゃアおめえ、丁度わっちの孫くれえの歳だからだ。子どもの歳なら子三郎、孫の歳なら孫三郎」
また皆がどっと笑った。
「父っつぁん、いくらなんでもデタラメすぎらあ。それを名前にしますかねえ!」
「イヤア、これでも随分長い事考えて、あれでもねえ、これでもいけねえと頭を悩ませたんでエ」
親に勘当されて頼れる身内の居なくなった芳三郎を憐れに思い、せめて自分の事を親とは思えずとも祖父のように思って貰いたいという裏に込めた豊国の優しさなど、誰も気付きもしない。
「ただし、ご両親に付けてもらった芳三郎の名に愛着もあろうから、画号の方に残すことにした」
てことは、と兄弟子たちはざわめいた。
「『国芳』。おめえは今日から、『国芳』だ」。・・・・・・
「ヨッ、国芳!」
「よかったな!国芳」
工房の兄弟子たちも、次々に声をかけて祝ってくれた。馴染めば優しい人間ばかりであった。
「さアて、今日は祝宴だ!いいとこ連れてってやらア」
国芳はすうすうと風の通る額に戸惑っている間に兄弟子たちに担ぎ出されて、辿り着いてみればいつのまにやら浅草の裏手、青柳のさやらさやらとたなびく奥の吉原遊廓の門前にいた。
「ここは」
何度か、春の吉原桜や秋の吉原俄の練り物を見に両親と訪れた事がある。
が、今日はそういうためではない。
兄弟子たちは頼もしい笑顔で頷いた。
「金は、俺たちが持つ。成人祝いだ」
女を知れ、というのである。
祝いと言われては無碍にもできず、国芳はままよ、と門を潜った。
一門の行きつけだという見世に大勢で登楼り、馬鹿騒ぎの酒宴ののちに国芳はめくるめく女郎の手ほどきを受けた。
四つの鐘と九つの鐘が続け様に鳴り相娼が眠りに落ちたのちも、初めて女を知った衝撃で国芳は全く眠れなかった。
更に一刻ほど経った丑の刻頃、国芳はこっそり蒲団を抜け出した。
蒲団といっても実家や国直の家にあるようなのとは全く違い、中の綿は倍ほど厚い。
しかもこの吉原では、この時刻になっても行燈が消えない。
しかも生臭い魚油ではなく高級な菜種油であった。
「ここは、竜宮城か」
国芳が立ち上がり、柱や欄間、天井などしげしげとその竜宮城の造りを眺め始めたその時である
「旦那さま」
「うわア」
背後から聞こえた声に驚いて尻もちをつくと、衝立の裏から幼い禿(かむろ)が二人、丸い目をきょろりと覗かせてこちらを見ていた。
少女たちは可愛い声で訊いた。
「なにか、不都合がありいしたか」
「いや、大丈夫だ」
「では、御手水に?」
「いや、ただ、その、・・・・・・今日がいろいろ初めてだったもので、びっくりして眠れねえだけだよ。羞ずかしいけれど」
国芳は、後ろ頭を掻いた。
子ども相手に何を言っているのだろう。
ますます羞ずかしさがこみあげて、赤面した。
「そうだ」。
国芳はぱっと思いつき、懐から紙と矢立の筆を取りだした。
そして、角行燈の下でさらさらと素早く何かを描きつけた。
「これ、何かわかるかえ」
「なあに」
二人は小さな頭をもたげて、国芳の絵を覗き込んだ。あどけない二つの顔が、灯に赤く照らし出された。
「歌舞伎だよ。中村座の『遅桜手爾波七字』の越後獅子。今年の新作だぜ」
「ふうん」
「分かりいせん」
「越後獅子、知らねえのか」
「はじめて見いした」
そうか。
国芳は胸を衝かれた。
この子どもたちは、ほとんど妓楼から出られないために、娑婆で当たり前の大道芸すら知らないのである。
「じゃあ、これは」
さらさらとまた別の紙に描きつける。
ぱっと子どもに見せると、二人はきゃっきゃと笑った。
「こら、姐さんが起きちまうよ」
と叱りつつも、そうか、そんなに面白いかと国芳は嬉しくなった。
描いた絵は、狐やガマや猫が可笑しな格好でひょうきんに踊っている、それだけの戯れ絵である。
禿たちがもっともっととせがむので、国芳は動物たちの手に凧を描き加えた。
「凧は知ってるかえ?」
「知りいせん。面白いの?」
「面白いぜ。正月になりゃ皆やるんだ」
「どういうの?」
こういうのだ、と国芳は自分が描いた絵を指しながら説明した。
「奴や三番叟やら武者やらが、空を飛ぶのさ」
「お空を?」
「ほんとうにい?」
「変なのお」
くすくす笑いの止まらない二人の禿を見ていると国芳まで楽しくなって、三人で笑った。
「それ、やるよ」
国芳は二人分ちゃんと描いて、幼い禿たちにそれぞれ与えた。これが、国芳としての初めての絵になった。
「どうだった、首尾は。楽しかったか!?」
帰りがけの土手八町で兄弟子たちに囲まれて尋問のように訊かれた時、国芳の脳裏には女との褥の事よりも夜中に子どもと交流したその記憶が鮮明に浮かんだ。
国芳は笑み笑みして、
「あい、楽しかったです」
と答えた。兄弟子たちは、そんな事とも知らずに手を叩いて喜んだ。
その翌年の正月二日。・・・・・・
「凧やア、凧」
国芳は初めて凧売りに身をやつし、手製の凧を渋紙張りの籠いっぱいに詰めて、吉原遊廓の門をくぐったのであった。
◾文政八年、一月 (1)「どうも長々と、トンチキ絵師の昔話をお粗末様でした」
綿入りの夜着を着込み、講釈師のように扇子と手ぬぐいを使って話していた国芳は、飽きもせずに聞いてくれた相方に対して深々と頭を下げた。
「へえ、それで兄さんは正月に吉原(なか)で凧を売るようになったんだねえ」
同じく夜着にくるまり火鉢を抱き込んで聞いていた佐吉は、感心したように言った。
「ああ」
あの日から十年余り、いくつかの作品を出したもののまったくと言ってもいいほど芽が出なかった国芳は、だんだん豊国のもとにいづらくなり、工房に寄り付かなくなった。
それでも文化年間は国直の家に居候していたが、文政になって国直が嫁を娶ってからはさすがに迷惑だと思い、一人で白銀町二丁目や合羽干場のあばら屋を転々としたのち、この佐吉に拾われた。
「わっちゃア落ちこぼれだから、父っつぁんもわっちの事なんざ忘れっちまったろう。わっちもあんなくそじじいの事なんざ嫌えだ」
「でも、その『わっち』ってのも、豊国の父っつぁんの受け売りなんだよな」
佐吉が笑いながら指摘した。
「うるせえ」
ぽかりとげんこつを落とした瞬間、とんとん、と表をたたく音がした。
「芳。芳坊。ここにいるかえ?」
腰高障子の向こうから懐かしい声が掛かった。
「鯛兄イ・・・?」
声の主は、明らかに国直であった。
国芳は慌てて身繕いをした。
「あいただいま!」
土間に飛び降りてガラリと障子を開くと、果たして国直であった。
「よお、久しぶりだな」
すっかり父親らしい表情になっているが、逞しい体躯と笑った顔は少しも変わらない。
上がるかえと訊くと、いやここでいいと言う。
国芳もほっとした。
手前の四畳には佐吉がいるし、その奥の六畳には描き損じの紙くずやら筆やら絵の具皿が散らばり放題である。
「芳、目やに付いてるぜ。真面目に描かねえでゴロゴロしてたのか?」
「やだねえ鯛兄イ、人聞きの悪い。その逆。絵を描きすぎたから、佐吉と話して休憩してたんでい」
「本当かよ」
「本当本当。ねえ、鯛兄イ。一体何の話してたか、分かるかえ?」
「何って、ナニだろ」
「馬鹿、違げえよ」
「兄貴に向かって馬鹿って言うなよなあ」
「正解は、わっちが入門したての頃の話さ」
「アア?おめえさんが、十の時だっけ?」
「ちゃらくら言うねえ、十六でい」
「十六だったか!?喧嘩ッ早くてガキくせえからもっと下だと思ってたぜ」
「いやだねえ、鯛兄イは。わっちゃあ幾つになっても純真無垢な少年のままだよ。菊慈童だよ」
「へっ。菊慈童が聞いて呆れらあ。なあ。どの口が言ってんだ?なあ?」
国直は笑いながら国芳の頬を両手でつまみ、にいーっと横に引っ張った。
「あだだだだ!やめて鯛兄イ!ちょっとした洒落じゃねえか!」
頬を抓まれた国芳は涙を浮かべて笑った。
国直は国芳の端正な顔を歪めて遊んでひとしきり笑うと、ようやく手を離した。
国芳の頬が赤く痕になっている。
「懲りたな。それはそうと、今日来たのアな、言伝があるんだ。父っつぁんの具合が良くねえのア知ってるだろう。こないだ俺ア見舞いに行ったんだが、実は国貞兄さんからおめえに言伝でなア」、
国直が言いづらそうに手を擦り合わせて、
「明日、父っつぁんを訪ねるようにと」。
「うん、分かっ・・・・・・あ!?ええッ!?」
いつもの調子で生返事しかけた国芳は飛び上がった。豊国とは決別してもう随分会っていないのである。国直は念を押した。
「明日。かならずな」
「ええっ、それだけは!兄さん、それだけは勘弁しつくんな!」
国芳は手を合わせて、頭の上までその手を振り上げて請うた。
「馬鹿言うな。師匠の仰言った事だ」
「勘弁信濃の善光寺!」
「洒落たって駄目だよ」
「父っつぁんがわっちの事呼び出すわけねえや!そっ、それア、あいつだ!国貞の罠にちげえねえ!」
「まあ、おめえはそんな事を言い出すだろうと思って」、
国直は横に隠れている誰かに向かって手招きした。
「あ、・・・・・・ああっ・・・・・・!」
国芳はその人物を見るや否や、腰を抜かして口をパクパクさせた。
「芳、・・・・・・相変わらずだな」
踏み場のない土間から、いつかと同じように国芳を見下したのは、あの狐のように切れ上がった目である。
着物の吸い付くような撫で肩、細い腰の先に結んだ貝ノ口、加えてその淡々と冷静な喋り口調は紛れもなく、
「国貞の兄さん・・・・・・!」
罠を仕掛けた国貞本人が、目の前に立っていた。
「ず、ずりいや鯛兄イ!国貞の兄さんが一緒だなんざ、言わなかったじゃねえか!」
「だから今、お前自身が言っていただろう。これは、罠だと」
見下ろす目が記憶と違わず冷たい。
「そ、そんな・・・・・・!」
「明日」、
国貞は、ぴしゃりと言う。
「かならず先生の工房まで来い」
「それア!」
国芳は咄嗟に言い返した。
「国貞の兄さん、それア本当に、父っつぁんの思し召しかえ?」
「何故、疑う?」
「父っつぁんが、わっちに会いてえなんざ」、
国芳の胸が詰まった。
「言うわけねえもんよ」。
突然弱々しくなった国芳の声を聞いて、国直が心配そうな目をした。
国芳が工房に通わなくなったのを咎めずに庇ってしまったのは国直である。弟分の可愛さにその行為を許してしまった国直も、少なからず責任を感じているようであった。助け舟を出そうと国直が何か口を挟もうとした時、
「いいや」、
と国貞が言った。
「先生が、明日お前を連れて来るようにと仰ったのさ。私はそれを伝えに来ただけだ」
国貞の声は、心なしか柔和であった。
「兄さん、でも・・・!」
「国芳」、
あまりその名を呼んだこともない国貞が、静かにその名を呼んだ。
「時間がもう、ない」。
国芳は静かな声で落とされた大きな衝撃に、びくりと顔を上げた。
「え?・・・・・・」
「先生はもう、・・・・・・相当悪い」
「え・・・・・・」
国芳の声が掠れた。
「明日の辰の刻。待っている。かならず、来ておくれ」
国貞は静かに国芳に向かって頭を垂れた。
きちんと清潔に剃られた月代と程良く散らした刷毛先が、国芳の目に鮮烈に映った。
否、その衝撃は鮮烈を越して違和感すら伴っていた。
なにしろ、いつも冷ややかに国芳を見下ろしていた国貞の頭のてっぺんなど見たことがない。
(国貞の兄さんが、頭を下げた)
ひどく長い沈黙の末に、国貞は顔を上げた。
長い睫毛に縁取られた国貞の目は、静かにひたりと冷えた哀しみを湛えている。
「父っつぁんは、今日は・・・・・・?」
国芳はおずおずと国貞に訊いた。
「ああ、先生は国重の兄さんが看てくれているし勿論お内儀もいるから、心配はいらない。先生もさすがに、私の顔ばかりでは嫌になるだろうから・・・・・・」
不安からか少しだけ饒舌な国貞の言葉を聞きながら、こんな弱気な事を言う兄弟子だったろうか、と国芳は思った。
国芳の記憶の中の国貞はいつも強気で、国芳がつっかかろうが何をしようが顔色も変えずに絵だけを描いていた。
(いや、顔をこちらに向けてくれたことすら、ほとんどなかった。・・・・・・)
背中だ。
国貞の猫のようにしなやかな背中ばかりが、国芳の脳裏には焼き付いている。
(あの背中が)、
いつの時も何も語らなかったあの背中が、工房に寄り付かなくなってからもどうしても頭から離れなかった。
自分の母親が亡くなった時にも国貞は取りも乱さず、背中しか見せなかった。貝がそっと口を閉じるように押し黙って画室で絵を描いていた、あの冷たい背中。
そこには人間が当たり前に感受する喜びや哀しみ、そのどの色も読み取れはしなかったが、絵筆を握るそのしなやかな指先は、江戸中を惹きつける粋で洒脱な錦絵を常に紡ぎ出し続けてきた。
師の期待に応えて江戸中から愛される「歌川派の絵師」となるためだけに、国貞は生きてきたのである。
(幾つの哀しみを、幾つの切なさを呑み込んで、あの背中は一体)、
国芳は気が遠くなる思いがした。
その背中の持ち主が今まさに目の前にいて、その薄いくちびるが弱音のような事を吐き、哀しい目で頭を下げている。
(わっちのようなボンクラな弟分に)。
そういえば国貞が怒る時にはいつも、豊国の名を汚す気かと言って怒った。私情で怒った事は一度もないのに、豊国の事となると烈火のごとく怒り狂った。国貞には、豊国が全てだったのだ。この人ほど豊国を理解しようとし、敬愛し、そのすぐ背後をひたりと付いて歩いてきた弟子は後にも先にもいるまい。
(もう父っつぁんは本当に、いけないのかも知れねえ)
国芳は、ごくりと唾を飲んだ。
「国貞の兄さん」、
国芳の発した低い声に、国貞は長い睫毛をふっと上げた。
「今日はわざわざわっちのために御足労ありがとうごぜえやした」
国芳の素直な言葉を聞き、国貞は見逃すほど微かに口角を上げた。
「明日、わっちを父っつぁんに」、
国芳は額を床に擦り付け、兄弟子に懇願した。
「どうか明日、父っつぁんに会わせて下せえ!宜しくお願えしやす・・・・・・!」
国貞は初めて国芳のこんな風に真剣な姿を見て、随分驚いた表情をした。
「だから、初めからそう頼んでいるだろうが」
ふっと国貞は口許を緩め、そしてその後に、
「ありがとう」。
藍瓶の中に一粒の水滴がぽたりと落ちるように、言葉が国芳の胸の底に落ちてじわりと広がった。
その後、国貞と国直は下駄の歯が土を噛む音すらも立てずに、静かに裏長屋を去った。
(どうしたって国貞の兄さんには、一生敵いっこねえ)
今更分かりきった事実を改めて鼻の頭に突きつけられ、国芳は砕けそうなほど歯を食いしばった。
結局その後しばらく床に額を擦り付けたまま、国貞がいたという余韻が完全に消えるまで、ぴくりとも動く事が出来なかった。
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan