築地市場側の波除神社には魚河岸に近い神社ゆえの独特なものが祀られている

心に残る家族葬

築地市場側の波除神社には魚河岸に近い神社ゆえの独特なものが祀られている

豊洲への移転問題に揺れた東京都中央卸売市場・築地市場が、いよいよ10月6日に閉場する。「場外」と呼ばれる、市場周辺にはにぎやかな店が並び、国内外から多くの観光客が詰めかけている。その人混みを抜けたところにある波除(なみよけ)神社には、魚河岸(うおがし)に近い神社ゆえの、多くの「面白いもの」が祀られている。

■蛤や玉子、寿司、てんぷら海老、あんこう、魚、昆布、吉野家の碑がある


鳥居をくぐった右手の、高さ2.4m、幅3.3mの巨大な黒い獅子頭、そして右手の、ほぼ同じ大きさの赤い獅子頭に、参拝客はまず驚かされるのだが、そればかりではない。車3台分、50人ぐらいの人で、すし詰め状態になってしまう程のこじんまりした境内には、おきつね様、天照大神(あまてらすおおみかみ)・大国主命(おおくにぬしのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)・天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祀った末社、縁起物の蛤(はまぐり)石(年代不明、仲買の網弁商店奉納)に加え、左の手前から奥に向かって、玉子塚(平成5(1993)年、東京鶏卵加工業組合建立)、すし塚(昭和47(1972)年、東京都鮨商環境衛生同業組合(現・東京都鮨商生活衛生同業組合)建立、海老塚(昭和48(1973)年、東天会てんぷら料理協同組合・株式会社海老の大丸建立)、鮟鱇(あんこう)塚(同年、魚河岸仲買の尾邦・三浦啓雄建立)、活魚塚(昭和59(1984)年、東京築地魚市場活物組合建立)、昆布塚(平成28(2016)年、有限会社サイトウ建立)。そして左側の獅子頭の前には、2基の魚がし碑(大正14(1925)年と昭和4(1929)年建立)と牛丼チェーン店の吉野家の碑(平成28(2016)年建立)がある。

■築地は元々存在しなかった。築いた地だから築地と名付けられた。


築地閉場後の10月11日には、豊洲市場が開場する。汚染水・盛り土問題などで、長らく揺れに揺れた移転問題だったが、そもそも東京の魚河岸は移転の宿命を負ってきたと言っても過言ではない。

そもそも「築地」とは、もともと存在していた土地ではなかった。「築いた地」だったから、「築地」と呼ばれるようになったのである。

■徳川家康が埋立工事を行った


天正18(1590)年、徳川家康は8000の兵を率い、江戸城に入城した。しかし当時の江戸は、まだ小さな宿場町程度の規模だった。江戸市中の一番外側が現在の浅草で、隅田川の対岸は市外だった。海岸線は現在の日比谷〜八重洲辺りまでで、そこから先は、葦の生えた潮浜だった。家康は、早急に関東新領国の行政基盤を固めるばかりではなく、首府としての江戸を形成させなければならなかった。そこで家康は、全国の諸侯七十家に、千石に1人の人夫を出させ、江戸東南海面の大掛かりな埋め立て工事を行わせたのである。

■江戸の大火「振袖火事」によって移転を余儀なくされた


時を経て明暦3(1657)年、後に「振袖火事」とも呼ばれた江戸の大火が起こった。江戸開府当時、浅草横山町(現・中央区日本橋横山町)に位置していた京都の西本願寺の別院も燃え落ちてしまい、移転を余儀無くされていた。幕府は代替地として、葦の生えた潮浜を与えた。そこに土地を築き、本願寺が建てられた。埋め立ては主に、慶長20(1615)年の大坂夏の陣などにおいて、家康を助けたことから、江戸開府に当たって呼び寄せられていた摂津国西成郡佃(つくだ)村の漁師たちが行った。彼らは隅田川河口近く、当時鉄砲洲と呼ばれていた干潟を与えられ、埋め立てて島とし、「佃島(つくだじま)」と名付け、徳川家に毎年魚を献上する代わりに、特権的に漁業を行うことが許された。彼らの尽力によって、万治元(1658)年に仮本堂が完成した。当時の「築地」は武家屋敷と、寺内に58の寺中(じちゅう)寺院を擁する巨大な本願寺が広がる、今日我々が知る「築地」とは全く異なる様相を呈していたのだ。

■埋立工事は激しい波によって困難を極めた

その同時期、万治2年のこと。4代将軍家綱が手がけていた、築地周辺の埋め立て工事は困難を極めていた。堤防を何度築いても、激しい波にさらわれてしまう。そんなある夜のこと、海面を光りながら漂うものがある。船を出して人々がそれを引き上げてみたところ、稲荷大神の神像だった。それを祀ったところ、高波は収まり、無事に工事が完了した。そのお稲荷さんを祀ったのが、波除神社の由緒とされる。それ以来この神社は、洪水・津波・高潮などの天災、また水難事故を退けてくれるということで、多くの人に信じられてきた。

■江戸城に収める魚の余りを売り始めたのが日本橋魚河岸の始まり

家康に重用された摂津の佃村の人々の多くは、日本橋界隈に住んでいた。彼らは江戸城に納める魚の余りを、周囲の町人たちに売り始めたのだ。それが「日本橋魚河岸」の始まりである。今日我々が知る、いなせな町人層から成る「江戸」の様子、そして「宵越しの金は持たない」に象徴される、刹那的な「気っぷの良さ」を身上とする「江戸っ子気質」は、「江戸三千両」とも称された、大いに栄えた日本橋という「場所」で始まった。「江戸三千両」とは、朝は魚河岸で千両、昼は歌舞伎が演じられた芝居町で千両、そして夜は、明暦の大火で浅草に移転するまでの吉原で千両の金が動いていたことを意味している。「江戸」の中で最も「江戸っ子」らしい人々が働いていた魚河岸に限って言えば、彼らは大店(おおだな)の商人とは異なり、家主よりも土地を借りたり、店を借りたり、または同居していた人々が多勢を占めていた。そのことによる「身軽さ」、そして「庶民性」が、「江戸っ子」らしさを生み出していたのだろう。

■築地は貿易港にはなれなかったが外国人との交流の地として栄えた

その後、動乱の幕末期の安政4(1857)年、幕府は築地講武所内(現・築地6丁目)に軍艦操練所を置いた。そこでは、旗本・御家人などから希望者を募り、オランダから買った軍艦の操縦方法を練習させていた。それを引き継ぐ形で、明治に入ってからも、海軍兵学校・海軍軍医学校・海軍経理学校・兵器廠などが建設された。また同時に、明治元(1868)年に首都となった東京に、横浜同様、外人貿易商や日本人の売り込み商人が多数入って繁栄することを願い、外国人居留地を設けて、築地ホテルを開館した。

しかし、外国人の側からすると、既に貿易港として整備されていた横浜と、諸事が「二度手間」になってしまうことが厭われてしまった。その結果、明治政府の目論見は外れ、築地が横浜のような国際貿易港として栄えることはなかった。しかし、多くの外国人が築地周辺を出入りしていたことにより、キリスト教宣教の本拠地となったこと、それに伴い、多くのミッションスクール、または日本の近代教育の発祥の地となったこと。聖路加病院など、西洋の進んだ医学がもたらされることとなった。

■関東大震災によって日本橋魚河岸は立ち退きを余儀なくされた

時を経て、大正12(1923)年、関東大震災が起こった。死者・行方不明者10万5000人余り、全焼建物は21万戸を数えた。日本橋魚河岸は時代が変わっても、拡大発展を遂げていた。しかし全てが焼亡してしまった。彼らは元の土地に魚河岸を復興することが叶わず、立ち退きを余儀なくされた。一時芝浦に仮市場が設けられていたが、昭和10(1935)年、築地に移転する形で、新たに魚市場が設けられたのである。

■日本を代表する魚市場に成長していった築地

食料統制で往時の賑わいが失われていた第2次世界大戦を乗り越え、戦後の築地市場は、「東京」のみならず、日本全体を代表する魚市場として成長を続けた。日本国中から集まってくる、多種多彩の新鮮で品質のいい魚を、仲買人が威勢良く競り落としている情景は、多くの日本人の知るところである。

小池百合子東京都知事は、中央卸売市場が豊洲移転してからも、「築地」がなくなってしまうわけではないと強調しているが、「築地」を色濃く反映させていた波除神社に建てられた様々な塚や記念碑に寄せられた魚河岸の人々の思いは、これからどうなるのだろうか。我々をおいしいおいしいと喜ばせ、生かしてくれた多くの魚たちへの感謝と慰霊の気持ちも、豊洲に「移転」するのだろうか。豊洲への移転が、単なる「利便性」「近代性」だけのものであっては、決してならない。

■参考文献

■北原進・山本純美・東京にふる里をつくる会(編)『東京ふる里文庫 21 中央区の歴史』1979年 名著出版
■中央区教育委員会(編)『中央区の文化財 4 有形民俗文化財 −信仰』1981年 社会教育課文化財係(刊)
■金山正好・金山るみ『東京史跡ガイド 2 中央区史跡散歩』1993年 学生社
■中央区教育委員会/社会教育課文化財係(編・刊)『中央区の昔を語る 9 箱崎町・築地』1995年
■本願寺出版社東京支社(編)『築地』2009年 本願寺出版社
■街とくらし社(編・刊)『江戸・東京文庫 1 江戸の名残と情緒の探訪 改訂版 江戸・東京 歴史の散歩道 1 中央区・台東区・墨田区・江東区』2010年 
■山折哲雄(監修)槇野修(著)『江戸東京の寺社609を歩く 下町・東郊編』2011年 株式会社PHP研究所

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