葬儀と関係なかった仏教が、葬儀と結びついた背景と親鸞の影響力 (2/3ページ)

心に残る家族葬

そこに法然は「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えるだけで救われるという革命を起こした。ただ念仏を唱えるだけで極楽に行けるのである。日本において仏教は国家・貴族のものであり難解な学問であり、貧しく文字すら読めない民衆にとって遠いものだった。法然の革命で民衆はどれほど救われただろう。親鸞もまた法然の教えに感銘を受け弟子となり、法然の革命をさらに先鋭化したのだった。


■遺体は埋葬せずに「棄てるべし」という遺言をのこした親鸞

こうした親鸞の思想はその遺言にも反映された。親鸞は死に際して自らの遺骸を「棄てるべし」と言い残している。

「『某(それがし) 親鸞 閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべし』と云々。これすなはちこの肉身を軽んじて仏法の信心を本とすべきよしをあらはしましますゆゑなり。これをもつておもふに、いよいよ喪葬(そうそう)を一大事とすべきにあらず、もつとも停止(ちょうじ)すべし」(本願寺第3世・覚如著 「改邪抄」 第16条)

極楽往生した身にとって肉体はもはや脱け殻同然であるし、魚に与えることで魚に生命を与えることになる。さらに広く見れば母なる地球に帰ることにもなる。昨今流行りの散骨や自然葬につながる現代的な発想といえるだろう。しかしその遺言は守られることはなかった。

■遺言はかなわず納骨された。場所は大谷廟堂、のちの本願寺だった

親鸞の遺骸は遺言に反して、鳥辺野の南にある延仁寺で火葬にされた。翌日遺骨を拾い、同じ山麓の鳥辺野の北の大谷に納骨された。没後10年にして、末娘の覚信尼(1224~1283)と門弟は墓所を改造し御影を納める。この大谷廟堂がのちの本願寺である。

覚信尼は廟堂を管理する留守職となり、一族の生活の糧とした。以降、本願寺は親鸞の血統=大谷家を頂点として浄土真宗の儀式・儀礼を受け継ぐ。大谷家は近代には伯爵となり、皇室とも縁戚関係を結ぶ名門・名家として現代に至るまで日本仏教界に君臨している。
親鸞の個人主義からすれば教団という形式自体がそれに反するものであり、全く見当違いの展開ということになる。 しかしそれこそが日本人の儀礼を重んずる精神構造である。親鸞はあまりに先鋭的過ぎたのだった。

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