15歳にして「悪(にく)らしいほど強い武士!」となった鎌倉悪源太こと源義平の武勇伝(中)
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15歳にして「悪(にく)らしいほど強い武士!」となった鎌倉悪源太こと源義平の武勇伝(上)頼朝公の異母兄である源義平(みなもとの よしひら)は、わずか15歳で武蔵国(現:東京都&埼玉県)の叔父・源義賢(よしかた)を討伐(大蔵合戦)。
月岡芳年「新形三十六怪撰」より、大暴れする源義平
この戦での豪勇ぶりから「鎌倉悪源太(かまくらあくげんた)」すなわち「鎌倉の悪(にく)らしいほど強いヤツ」と恐れられるようになりました。
一方で父・源義朝(よしとも)は京都にいる武蔵国司で貴族の藤原信頼(ふじわらの のぶより)に頼んで、義平の罪をもみ消してもらいました。
しかし、争いの火種はくすぶり続け、やがて乱世の暗雲と立ちこめるのでした。
「保元の乱」ではお留守番?作者不詳「保元・平治合戦図屏風」京都・神泉苑蔵
さて、大蔵合戦で義平が「鎌倉悪源太」の異名をとった翌・保元元1156年。京都では天皇陛下と上皇陛下の権力争いが武力衝突に発展、世に言う「保元の乱」が勃発しました。
この時、義平の父・義朝は天皇陛下にお味方して大活躍、勝利の後に「左馬頭(さまのかみ)」という官位をもらっていますが、義平が参戦した記録は残っていません。
恐らく義平は本拠地・鎌倉の留守を預かっていたものと考えられます。自慢の腕が奮えず、さぞや残念だったでしょうが、帰る場所を守るのも大事な務め。
むしろ「義平が鎌倉を守ってくれるからこそ、背後の心配なく思い切り戦える」のですから、義平がいかに武勇名高く、そして義朝からの信任篤かったか、がわかります。
源平格差・募る不満につけ込む輩京都・白峯神宮蔵 源為義肖像。息子・義朝に斬られる。
さて、保元の乱で大活躍、永年にらみ合っていた父・源為義(ためよし)らを倒してスッキリした義朝ですが、その後の待遇に不満がありました。
保元の乱では源氏も平氏も一族の中で敵味方に分かれて戦いましたが、敗れた者の処分は、源氏は重く、大ぜいが処刑された一方で、平氏は比較的軽く、処刑された者もそれほど多くありませんでした。
これは朝廷の警護役として並び立つ源氏と平氏のパワーバランスをとったためとも言われています。
これまでのおさらい・源氏の略系図
しかし、源平それぞれの棟梁に対する待遇は明らかに異なり、平氏の棟梁である平清盛(たいらの きよもり)はトントン拍子で大出世、やがて「殿上人(てんじょうびと)」へと昇りつめていきます。
一方、源氏の棟梁である義朝と言えば、相も変らぬ「地下人(じげにん)」のまま。
ちなみに「殿上人」とは内裏(だいり。朝廷の宮殿)に上がれる高貴な身分で、これまで地下人と卑しまれてきた武士の中では異例中の異例ですから、両者の格差がわかります。
これは義朝の不遇というより清盛が厚遇すぎるのですが、同じ仲間として同じくらいの手柄を立てたはずなのに、この格差はあんまりです。
そんな義朝の不満をかぎつけて、謀叛(クーデター)をそそのかした者がいました。
……それが藤原信頼です。
鎌倉悪源太、平治の乱で京都に出陣!作者不詳『平治物語絵巻』より、鎌倉時代。
藤原信頼は信頼で、貴族社会の中で不満を抱えていました。
そこで義朝をそそのかし、手を組んでクーデターを起こしたのが平治元1159年12月9日。
これがいわゆる「平治の乱」で、強敵である清盛らが京都を留守にしている隙を狙った犯行でしたが、序盤戦の勝利で油断している間に舞い戻って来た清盛たちによって蹴散らされてしまいます。
これが平治の乱におけるごくざっくりとしたストーリーですが、今回は総力戦なので鎌倉から「悪源太」義平も呼び出され、大いに武勇を示すことになります。
……しかし、義平が再び鎌倉の地を踏むことはありませんでした。
【続く】
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