美しき女武者!木曾義仲と共に戦いその最期を語り継いだ女武者・巴御前の生涯(上) (3/3ページ)
「奢れる平家、久しからず!」
この頃、朝廷で権勢を恣(ほしいまま)に奢り高ぶっていた平清盛一門に対する武士たちの不満は頂点に達し、5月に発せられた令旨によって全国各地で反乱が勃発。
去る8月17日には豆州(現:静岡県の伊豆半島)で頼朝公も一足先に挙兵しており、東国を吹き荒れる乱世の風雲を感じながら、たくましく成長した義仲の出陣姿(いでたち)に、兼遠は感涙に噎(むせ)んだことでしょう。
意気揚々と木曾の地を発った義仲の傍らには、いつも美しい騎馬武者が随従していました。
もちろん兼遠の愛娘、18歳になった巴です。
連戦連勝そして上洛。「朝日の将軍」義仲、人生の絶頂期
倶利伽羅神社蔵「倶利伽羅峠合戦の図」。
さて、巴はかねてよりの武勇を見込まれ、義仲の一部将として軍勢を率い、信越・北陸各地を転戦。
著名なところでは横田河原の戦い(治承五1181年6月)で敵七騎を討ち取るほか、火牛戦術で有名な倶利伽羅峠の戦い(寿永二1183年5月)、続く加賀篠原の戦い(同年6月)でも大勝利。
貴族かぶれの平氏勢を散々に打ち破り、徐々に京の都へと勢力を伸ばしたのでした。
巴は数々の武勲を立てるのみならず、義仲の便女(びんじょ。女性補佐官)として執務の補佐や身辺の世話など、陰に陽に彼をサポートしました。
その甲斐あってか木曾軍は寿永二1183年7月28日、いよいよ京都から平家一門を追い出して念願の上洛(じょうらく。京都に上ること)を果たします。
同年8月16日、義仲は後白河法皇(ごしらかわ ほうおう)より「朝日の将軍」という称号を与えられ、人生の絶頂期を迎えますが、それも永くは続きませんでした。
【続く】
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