美しき女武者!木曾義仲と共に戦いその最期を語り継いだ女武者・巴御前の生涯(上)
「色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵(ごうきゅうせいひょう)、一人当千の兵者(つわもの)なり」
『平家物語』(木曾殿最期)にそう記された美しい女武者こそ、木曾冠者(きそのかじゃ)こと源義仲(みなもとの よしなか)のパートナーとして名高い巴御前(ともえごぜん)。
月岡芳年「英名組討揃」より、敵を組み伏せる巴御前。慶応元1865年。
強く賢く美しく、そして愛するパートナーとの別れ……と、ヒロイン要素バッチリな彼女ですが、今回はその生涯をたどってみたいと思います。
巴御前の出自
菊池容斎「巴御前」。
彼女の生まれた年ははっきりせず、書物によって大きく異なるのですが、最も早いもので仁平三1153年、最も若いもので長寛元1163年と、10年ばかりの開きがあります。
※しかし折角なので、ひとまずここでは最も若い長寛元1163年説を採ります。
ともあれ巴は信州(現:長野県)木曾の豪族(庄司。荘園の役人)・中原権頭兼遠(なかはらの ごんのかみ かねとお)と千鶴御前(せんつる/ちづるごぜん)の娘として生まれました。
彼女の兄弟には、主君・義仲の乳兄弟として共に最期まで戦い抜いた今井兼平(いまいの かねひら)はじめ、義仲を全力で支えた豪傑たちが勢揃い。
まさに総出で「木曾の御曹司」義仲に忠義を尽くした一族と言えます。
巴のパートナー・木曾義仲の生い立ちさて、ここで少し話がそれます。
義仲は木曾に土着していた人間ではなく、元は京の都から武蔵国(現:埼玉県+東京都)に赴任してきた源義賢(みなもとの よしかた)の嫡男として、久寿元1154年に生まれました。幼名は駒王丸(こまおうまる)と言います。
しかし駒王丸が2歳となった久寿二1155年、鎌倉から攻め込んで来た従兄(父の兄・源義朝の嫡男)である源義平(みなもとの よしひら。当時15歳)によって、父を殺されてしまいます(大蔵合戦)。
幼い駒王丸は悲しむ暇もなく、斎藤別当實盛(さいとうのべっとう さねもり)らによって保護され、乳母の実家である中原兼遠の元に匿われました。
言わば兼遠はじめ中原一族は駒王丸にとって「育ての家族」、信州木曾は「第二の故郷」となったのでした。
義仲、反平氏の挙兵へ
木曾義仲肖像、徳音寺所蔵。
それから25年間、駒王丸は中原一族によって厳しくも大切に鍛え上げられ、駒王丸は元服して義仲と改名、立派な若武者に成長していました。
そして治承四1180年9月7日、義仲は以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ。皇族による命令)を奉戴し、信州木曾の地より平家討伐の兵を挙げたのでした。
「奢れる平家、久しからず!」
この頃、朝廷で権勢を恣(ほしいまま)に奢り高ぶっていた平清盛一門に対する武士たちの不満は頂点に達し、5月に発せられた令旨によって全国各地で反乱が勃発。
去る8月17日には豆州(現:静岡県の伊豆半島)で頼朝公も一足先に挙兵しており、東国を吹き荒れる乱世の風雲を感じながら、たくましく成長した義仲の出陣姿(いでたち)に、兼遠は感涙に噎(むせ)んだことでしょう。
意気揚々と木曾の地を発った義仲の傍らには、いつも美しい騎馬武者が随従していました。
もちろん兼遠の愛娘、18歳になった巴です。
連戦連勝そして上洛。「朝日の将軍」義仲、人生の絶頂期
倶利伽羅神社蔵「倶利伽羅峠合戦の図」。
さて、巴はかねてよりの武勇を見込まれ、義仲の一部将として軍勢を率い、信越・北陸各地を転戦。
著名なところでは横田河原の戦い(治承五1181年6月)で敵七騎を討ち取るほか、火牛戦術で有名な倶利伽羅峠の戦い(寿永二1183年5月)、続く加賀篠原の戦い(同年6月)でも大勝利。
貴族かぶれの平氏勢を散々に打ち破り、徐々に京の都へと勢力を伸ばしたのでした。
巴は数々の武勲を立てるのみならず、義仲の便女(びんじょ。女性補佐官)として執務の補佐や身辺の世話など、陰に陽に彼をサポートしました。
その甲斐あってか木曾軍は寿永二1183年7月28日、いよいよ京都から平家一門を追い出して念願の上洛(じょうらく。京都に上ること)を果たします。
同年8月16日、義仲は後白河法皇(ごしらかわ ほうおう)より「朝日の将軍」という称号を与えられ、人生の絶頂期を迎えますが、それも永くは続きませんでした。
【続く】
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan