徳川家康は替え玉?家康は戦死し、実は影武者だった説を検証

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徳川家康は替え玉?家康は戦死し、実は影武者だった説を検証

徳川家康(とくがわいえやす)といえば、江戸幕府の初代征夷将軍で、徳川260年の太平の世を実現させた有名な歴史上の人物。そんな家康に実は影武者説があるのはご存知でしょうか。

その説によると、「実は家康は戦死しており、途中から世良田次郎三郎という人物が将軍・家康を演じた」というのです。

将軍・家康が影武者だとして、本物と入れ替わった時期はいつ頃でしょうか。

それに関しては諸説あります。

① 桶狭間の戦いから数年後、松平元康は無事に今川家の支配から独立したが、家臣によって討たれてしまい、影武者と入れ替わった。

② 大阪夏の陣において真田の猛攻により討たれてしまい、影武者と入れ替わった。

史実を紐解けば、確かに不審な点は幾つかあります。もしも、松平元康時代に入れ替わっていたとしたら長男である信康の切腹も平気で命じたでしょうし、後に結城秀康や徳川秀忠になる実子たちのために信康をしまくしたくなったとしてもおかしくありません。

さらに家康と徳川秀忠は親子にもかかわらず晩年は仲が悪かったと伝えられています。これが赤の他人だったとしたら納得もできます。

それと関連して、船橋にかつて存在していた船橋御殿(現在の船橋東照宮付近 鷹狩に行く際に家康が何度か宿泊した)に家康が宿泊した際も不審火がでており、秀忠の手のものが家康暗殺を狙ったものとも伝えられています。

また、堺の南宗寺には「家康の墓」と称される墓があります。これは、近代になってから関西系の起業家たちの篤志により建立されたもので、もちろん当時のものではないのですが、元になった文書があります。それが「堺鏡」。

そこには家康が討たれたという記事があり、寺そのものにも徳川秀忠や徳川家光が墓参りに来た際の奉納物がいくつか伝えられています。このことを考えると、南宗寺には大阪で討たれた家康の亡骸が埋まっているのでしょうか。

家康の影武者説は1902(明治35)年に村岡素一郎が『史疑徳川家康事績』という作品を上梓してから、人々の間で流行り、隆慶一郎が『影武者徳川家康』を原作としたコミックで人々に広く知られるようになりました。

そもそも、戦国の世において影武者説は徳川家康に限らず、珍しいものではなかったようです。

一国を統治する武将の生死は自国のみならず、隣国や同盟国の命運を変えることもあります。

そのため、本人への直接的な危害や危険をそらすために影武者が用意されていました。

影武者に関する話で最も有名なのが、故事「元の木阿弥」の元となった筒井順慶の父、筒井順昭のエピソード。

順昭が亡くなったとき、嫡男である順慶が非常に幼く、家中が混乱することが予想されました。そこで、3年間その日を公開しないということになり、順昭と容姿も声もそっくりな木阿弥なる盲目の僧侶が影武者として立てられることになりました。

影武者となった木阿弥は見事に順昭を演じ、嫡男の筒井順慶に無事に橋渡しをしました。筒井家の家臣団が順慶の下で体制を整えた後、再び元の生活に戻っていきました。この故事から、「元の木阿弥」という言葉が生まれました。

遺言により3年間死を公表しないというのは当時よくあったことらしく、有名どころでは武田信玄や三好長慶などが、その死後3年間、死亡を公表されませんでした。

武田信玄の場合は他にも影武者にまつわる話があります。

5回あった川中島の戦いのうち、最も激戦になった第4回目の戦において、信玄の次弟である典厩信繁が信玄の身代わりとなって命を落としたともいわれています。

また信玄には後の三方ヶ原の合戦で徳川家康を破り、三河まであと一歩のところに進軍するも病によって倒れてしまいます。

これによって武田軍は甲斐へ撤退しますが、このときも弟の信廉が信玄に扮して撤退を指揮したといわれています。

最悪の場合、自分の家臣までが裏切るかもしれない戦国の世、自分の死が他人に知られた場合、その隙に乗じて攻めこまれないとも限りません。

「替え玉」は、戦国時代を生き抜くための武将たちの秘策だったのかもしれません。

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