【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第30話

Japaaan

【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第30話

前回の第29話はこちら

【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第29話

■文政八年、秋の八朔(2)

「入エるぜ」

障子戸の向こうから声がかかり、すっと開いた。

みつはふわりと振り返った。

「英泉はん」

現れた英泉の着物は、黒に近い紺地に流行りの蝙蝠(こうもり)を白く抜いた洒脱さである。

彼はちょうど同じような柄を作品にも描いている。

渓斎英泉「今様美人拾ニ景 氣がかるそう 両國橋」国立国会図書館蔵

彼はまさに蝙蝠が羽ばたくようなアクの強い声で笑った。

「よう、紫野花魁。あーしが仕立てた宴席で一刻もくたばってるたあ、なんてエ太エ野郎だろうね、この国芳てえのは」

「ええ、ほんに」・・・・・・

今宵のみつの白無垢も道中も、花代から宴席の仕出しに至るまで何もかも、英泉の援助あってこそである。みつは申し訳なさそうにうなだれた。

「しかしなんだね、この人の絵を見るにつけ、あーたがこの国芳に惚れる理由が分かったよ。認めよう。あーしの負けさね」

眉をハの字にして首をすくめた英泉の剽軽(ひょうきん)さに救われて、みつはふふっと喉の奥で笑った。金に糸目をつけぬ江戸ッ子英泉の気っ風の良さである。英泉は更に、

「この人ア、これから梁山泊(りょうざんはく)を目指す水滸伝の豪傑そのものだな」

そんな風に言った。どうやら国芳を気に入ったらしい。

梁山泊。

水滸伝の物語において、百八の豪傑たちがそれぞれの戦闘を繰り広げながら、最終的に集結する大水郷である。

歌川国芳「水滸伝豪傑双六」国立国会図書館蔵

(この人の言う梁山泊とは一体何処なのだろうか)、

浮世絵師の目指す梁山泊とは。

みつは英泉を見上げて思った。その遥かな響きに、なぜだか目の奥がつうんと沁みた。

「こいつとだったら、一緒にこの日本がひっくり返エるような事を企むのも楽しいかもねえ」

英泉は顎に手を当て、楽しげに鼻の穴を膨らませた。みつは心配になり、

「ちょいと、岡っ引きにでも聞かれれば捕まりなんすえ」

「まさか。清河の松平定信の治世は今は昔の話さ。誰にもあーしらを捕まえる権限なんざねえ。今の公方様はてえへんな子沢山で、あーしら道楽者の気持ちの分かる人だと聞いているよ」

英泉はお上なぞ屁でもねえという表情でケケケッと笑った。

現将軍の徳川家斉は側室四十数人、子供は既に五十人以上おり、世間では「俗物将軍」などと呼ばれている。しかし、同じ「俗物絵師」の英泉に言わせれば、生真面目すぎる将軍よりよっぽど面白い。

「これからア、あーしらの時代だ。あーしはあーしの大義に従って、ひたすらに手前が面白えと思う物を描いて、江戸の皆がびっくりしたり楽しいと思うものを手元に届けるさ」

「それが英泉はんの大義・・・・・・」

唐変木(とうへんぼく)で掴み所のない英泉にも「意気地」という真っすぐな芯がある。それを知ったみつは、キュッと小さな手を握りこんだ。

「ナア、花魁。艶本やら俗本の事を、『わ印』っつうだろ」

東里山人作/渓斎英泉画「其俤錦絵姿 2編6巻」より一部抜粋 国立国会図書館蔵

「ええ」

「『わ』は、笑いの『わ』だ。笑う本だから『わ印』だ。人間、ワッハッハと笑う時こそ、生きてるってえ心地もすらア。だから、あーしゃアそういう本を描き続ける。浮世なんざ面白くなきゃ、意味もねえのさ」

歌川国芳「里すゞめねぐらの仮宿」国立国会図書館蔵

笑い声とは裏腹に、黒目の小さな英泉の目には熱い焔が轟々燃えていた。今更気がついたが、英泉の描く女の目は英泉自身の目にそっくりである。見るからに捻くれていて、しかし、強い。

「国芳もあーしと同んなじさ。あーしとこいつア、目指すは同んなじ梁山泊だ。江戸中の絵師が同じ場所を目指して、いつか一つに集結して面白い物をどんどん作って、江戸中に溢れるでっけえ笑い声で世の中をひっくり返してやる」

「国芳はんも?」

みつは覗き込むように英泉を見た。

「ああ。安心しろ」

英泉が僅かに口もとを緩めて微笑んだ。

「あーしが必ず、共にゆく」。

国芳を連れて。

英泉の言葉を聞いたみつは一瞬泣きそうな表情をし、それから滲むような笑顔で微笑った。

・・・・・・・・・・・・

・・・・・・

歌川芳虎「東都名所八景之内 両国橋秋月」国立国会図書館蔵

両国橋の中腹。

国芳はひたすら絵を描いている。

橋の上で、食事も水も睡眠もろくに摂らず、昼も夜もなく描いている。

男の前には紙と幾つも並んだ絵皿、大小様々な筆。

それだけである。

月明かりを背に描いていると、向こうからいくつかの提灯の灯りがゆらゆらやって来た。どうせ岡場所帰りの酔っ払いだろうと特に気にも留めずに描き続けていると、提灯どもがわらわらとこちらへ近づいてきて、国芳の目の前でぴたりと止まった。

(?・・・・・・)

一人がしゃがんだと思うと、墨を溶いた絵皿の中に突然すぶりと指が差し込まれた。他の絵皿にも、ずぶり、ずぶり、ずぶり。

国芳が呆気にとられていると、

「お前、あれだけ荒い墨しか磨れなかったくせに、いつのまにこんなにいろんな墨を磨り分けられるようになった」

「あ?」

国芳はようやく認識した。

目の前の男は、兄弟子の国貞である。

「国貞の兄さん・・・・・・?わっちゃア夢を見てるのか」

「バアカ。夢は見るもんじゃねえ、描くもんだろうが」

「うわ、本物だ」

「うわじゃねえよ」

毒づく国貞から、ひょうたんにたっぷりの水が差し出された。

「水くれえ飲め。倒れるぞ」・・・・・・

(この人、本当に、国貞の兄さんか。)

国貞には厳格な印象ばかりが残っている。

国芳が狐につままれたような顔で目を凝らすと、

「芳。・・・・・・」

国貞の背後からひょっこり現れたのは国直だ。他にも、国安、国丸、多くの兄弟子たちが揃っていた。

「兄さんたち、皆揃ってどうしたってんでい」

「可愛い芳坊があの渓斎英泉と絵の大勝負するってんで、俺ア居ても立っても居られねえで、誘い合わせて来ちまったんだよ」

国直が持ってきた差し入れをどさりと置いた。

「しっかし本当に噂通り、両国橋の上で一日中描いてるとはな。酔狂にもほどがあるぜ弟よ」

国安が楽しそうに言った。

「さすがは、俺たちの末っ子だな」

「お前」、

国貞が狐のような目で言った。

「絶対あの偏屈エイセンに負けんな。歌川の名にかけて」。

ああ、それが言いたかったのか、と国芳は納得した。国貞と英泉は犬猿の仲なのである。

「おう、ありがとよ。そういや英泉がやたら国貞の兄さんの事嫌ってたが、兄さんも英泉が嫌えなんだよな」

「大嫌えだ。あいつア俺の丸パクリだ」

「英泉も同じ事オ言ってやしたよ」

両国橋の上で、小さな笑いが起こった。

「本当はナカいいんじゃねえの、兄さんとエイセン」

「てめえ、次言ったらしばくぜ」

からかった国丸がヒイと震え上がった。

「まあ、何にせよ俺たちゃ芳を応援してるぜ。何しろおめえは俺たち歌川派の一番最後の夢だからな」

「それにしても、家で描いた方がいいたア思うがな。なんでこんなとこで描いてんだ」

「それア違えよ、兄さん。両国橋(ここ)だから描けるんだ。この両国橋の上は、《江戸》そのものだ。この場所だからこそ、わっちみてえなふらふらにも、英泉に負けねえもんが描けるんだ」。

歌川広重「東都名所 両国橋夕涼全図」国立国会図書館蔵

・・・・・・

目が覚めた。

豪華に花の絵をあしらった格子天井が、鮮やかに目に飛び込んでくる。

(どこだ、ここア。・・・・・・)

ここ最近味わったことのないふかふかの蒲団に包まれて、ひどく心地がいい。

「国芳はん」

惚れた女が、自分を覗きこんで目を潤ませている。

綺麗な女だ。

何度見ても、いつ見ても、美しい女だ。

「おみつ。・・・・・・」

喉が渇いて上手く声が出ず、抱き寄せたいのに腕が上がらない。

(ああ、そうか。わっちゃア渓斎英泉に勝負を挑んで、それで、・・・・・・)

「し、勝負は、」

どうなったか、と国芳は訊いた。

「勝ったんだよ。国芳はん。あんたの絵が、江戸の皆の心を動かしたんだよ」

みつは国芳の描いた絵のひとつを手に、興奮気味に語った。

「馬鹿、倒れるまでこんなに描いちゃって」

「心配すんな、ただの寝不足だ」

「あんたが死んだら元も子もないのにさ、国芳はんはほんに馬鹿」

「めえが笑ってくれるなら、わっちゃア馬鹿にでも何でもなるよ」

「・・・・・・っ」、

やつれ果てた国芳の微笑に、みつは堪えかねて涙をこぼした。

「本当は、嬉しい。今までで一番嬉しかった。一生忘れない道中になったよ。ありがとう」

みつはぼろぼろと泣きながら礼を言った。

「この絵、とっても面白い。いままで見た絵の中でいっち面白いよ」

「そうか」、

と国芳は言った。

「やっと、おみつが面白いと思ってくれたか」・・・・・・

薄いくちびるから、深い溜息のような、安堵の息が漏れた。

報われたのだ。

この女と出会ってから一年余り、この女の為だけに描いてきた国芳の思いは、この男の恋は、ようやく報われたのだ。

「この絵を掲げていた人たちは皆、国芳はんの友達?」

「も、いた。一門の兄さん達も来てくれた。だが、大半は両国橋の上で通りかかった名も知らねえ人達だ」

「両国橋・・・・・・」

初代 歌川豊国「江戸両国すずみの図」国立国会図書館蔵

「あすこにはいろんな人間が通る。どいつもこいつもろくでもねえ奴らばっかりだが、絵を描いていると誰彼となく寄ってきて、声を掛けてくれた。そいつら一人一人に出来上がった絵を渡してお願いしたのさ。八朔の道中の日に、わっちの描いたこの水滸伝の百八の豪傑を持って京町一丁目岡本屋の紫野花魁に見せてやっつくれって」

「それで皆、あの絵を持って本当に来てくれたの・・・・・・?」

「そうだ。この江戸ア、おみつ、皆あったけえよ」

「あたし、国芳はんが今まで歩いてきた道を一緒に歩いているみたいだった。しかもこれ、一つ一つすごく細かく描きこまれてる・・・・・・」

「おめえになら、見えると思ってな」

「え?」

「墨をたくさんの濃淡に磨り分けて、同じ色の中にも角度や光の加減で模様が浮かぶように描いた。正面摺りみてえなもんだな。おめえがくれた手ぬぐいが、そういうやり方もあるって事を教えてくれた」

「そっか、」

みつは濡れた目を甲で拭いながら言った。

「あたし、役に立てたんだ」

「役立つどころか、ぜエんぶ、めえのお陰だ。ガムシャラに描いたって駄目だ、工夫もしなきゃ、面白くねえって気づかせてくれたなア、おめえだよ」

ああそうだ、と国芳が懐から何か取り出した。

「これ、やるよ」

「なあに」

「わっちの父っつぁんが染めた布で作った掛け守り」

取り出したのは、細い鎖の先に小さな花色染めの御守り袋をつけた掛け守りだ。役者や火消し、職人などが下げる事の多いものだが、国芳も侠客ぶって常に首から下げていた。

右・国芳「七ツ伊呂波東都不二尽 ろ 本町丸綱五郎・日本橋富士(部分)」国立国会図書館蔵 左・国芳「大願成就有ケ滝縞(部分)」国立国会図書館蔵

みつは首を傾げた。

「その父っつぁんって」、

「豊国じゃねえ、わっちの本物のお父っつぁんよ」

「わっちゃア実は、十五で勘当されてんのよ。実家の紺屋を継ぐのが嫌でよ。絵師になりてえつって豊国の父っつぁんのところに入門しちまったから」

「そうだったの」

「でもこの大勝負の噂を聞きつけて、本当の父っつぁんがこの掛け守りを作って両国橋まで届けに来てくれた。わっちの夢が本気なのをやっと認めてくれた」

「良かったねえ」

みつは、泣きそうな声で国芳の頬を撫ぜた。

「なあ、おみつ」、

国芳が優しい声音で語りかけた。

「家族って、何か知ってっか?」

「え?」

一瞬、岡本屋のお内儀や美のるや直吉、禿(かむろ)たちの姿が浮かんだ。みつにとって一番家族に近いものは彼らである。

「ちいとなら」

「家族はな、家族という本当の意味はな、『何をしても許せる』という事だぜ。父っつぁんがこないだ、そう教えてくれた」

「許せる・・・・・・」

「そう。例えばとんだ大罪人がいたとして、その母親だけはその子を許せる。たとえ倅が石川五右衛門だとしてもだ。そういうもんらしい。わっちゃアもちろん、おみつの事は何でも許せるてえ自信がある」

「ほんに?」

「ほんにさ」

「なら、安心した」

みつはふわりと笑った。

「わっちにゃア昔から提げているのがあるから、これはめえが掛けとけ」

しゃらりと、みつの細い首に銀の鎖がきらめいた。

「いいの?ありがとう」

「絶対無くすんじゃねえよ」

「約束する」

二人は少年と少女のように恥じらいながら小指を絡めた。

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第30話」のページです。デイリーニュースオンラインは、小説カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る

人気キーワード一覧