田中角栄「名勝負物語」 第三番 石原慎太郎(1) (2/3ページ)
人間はひょいと木のマタから生まれたわけではなく、親があり、しがらみを呑み込みながら頑張っているのだ。歴史ということである。「論」ではどうにもならぬものが世の中にはあるのだと、石原を戒めたということだった――。
これを機に、その後、昭和60年に田中が病魔に倒れ、その政治活動を停止するまでの17年間にわたる、田中と石原の確執の幕は、事実上、切って落とされることになる。その一つのピークは、昭和48年夏に自民党内で結成された反田中の政治集団「青嵐会」であった。
★反田中「青嵐会」結成でピークに
この「青嵐会」結成には、いくつかの背景があった。
前年、内閣を組織して、「日中国交正常化」に舵を切った田中に対し、自民党内の台湾“切り捨て”に、「反共」、親台湾派の反発が高まったことのほか、田中内閣で若手の登用がなかった不満も出た。また、48年春にすでに「日本列島改造論」にカゲが差し、前年12月の総選挙で敗北した田中首相は、次の総選挙、あるいは来たるべき参院選での勝利による政権浮揚を策して「衆院は小選挙区比例代表並立制、参院の全国区は非拘束名簿式比例代表制とする」などの公職選挙法改正を進めたこともあった。
田中は、もともと「小選挙区制」には否定論者だったが、自民党に有利なこの改正を政権浮揚策としたい“窮余の一策”であった。しかし、これは自民党内が圧倒的反対で、結局、陽の目を見ることなく潰された。当時、朝日新聞は田中内閣の「決断と実行」のキャッチフレーズをもじって、「独断とシマッタの角さん」と書いたものだった。
さらに言えば、田中が首相の座を獲得した「角福総裁選」時、露骨な“札束戦法”を取ったとし、それ以前の田中の“金権政治手法”に対する批判も、「青嵐会」結成を後押しした結果となっている。なるほど結成時のメンバーは、中川一郎、渡辺美智雄、中尾栄一、浜田幸一など31人、「角福総裁選」では親福田(赳夫)のメンバーがほとんどだった。石原もまた、福田シンパであった。
「青嵐会」の命名は、幹事長ポストにすわったその石原であった。小説家らしく、青葉の頃に吹き抜ける強風を意味する夏の季語である「青嵐」から引用したものだった。