ピンク・レディーとキャンディーズ、AKB48や乃木坂46の原点「スーパー歌姫伝説」

日刊大衆

写真はイメージです
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 その後のアイドルに多大なる影響を与えた、「2大グループ」の秘話を一挙紹介!!

 AKB48や乃木坂46など、21世紀はグループアイドルが流行しているが、その原点と言えるのが、ピンク・レディーとキャンディーズ。似ているようで実は大きく異なる、この両グループ、デビューはキャンディーズのほうが3年も早い。ラン(伊藤蘭)、スー(田中好子)、ミキ(藤村美樹)は、もともと渡辺プロダクションが創設した「東京音楽学院」の生徒で、そこから、NHKの歌番組のマスコットガールとして選抜されたメンバーだ。なお、音楽学院の同期には『木綿のハンカチーフ』の太田裕美もおり、彼女がその一員に選ばれる可能性も少なからずあった。1973年(昭和48年)、レコードデビューしたキャンディーズだが、しばらくはパッとしなかった。

「あるとき、マネージャーが、ライブ会場で若いファンの多くがランに熱視線を送っていることに着目し、センターをスーからランに変更。彼女をお姉さんキャラで売り出していきます」(スポーツ紙記者)

 新路線の第1弾シングル『年下の男の子』は、少年たちの妄想を激しく掻き立てたのか、人気が急上昇。当時、ソニーでキャンディーズを手がけていた音楽プロデューサーの酒井正利氏は、こう振り返る。「世の中を分かりかけてきた山の手のお姉さん……そんな雰囲気を演出したんです。彼女たちは、色の三原色のように三者三様で、キャラクター面でも、音楽面でも、そのハーモニーを重視しました」

■ミーとケイは『スター誕生!』でフォーク調の曲を歌って

 酒井氏は「描いたのはピュアな世界で、下世話さをウリにしなかった」という。そんなキャンディーズが『春一番』をヒットさせた76年、ピンク・レディーがデビューした。もともと静岡の高校の同級生だったミー(現・未唯mie)とケイ(現・増田惠子)は、浜松にあったヤマハのボーカルスクールに特待生として通っていた。「キャンディーズにあやかり、『クッキー』というお菓子の名前をつけたユニットを組み、セミプロ的な活動をしていたんです」(レコード会社関係者)

 そこから、2人はテレビのオーディション番組を受けることに。「最初に受けた番組で、派手な衣装で踊りながら歌ったところ、審査員から“素人っぽさがない”と指摘され、不合格に。そこで、本命視していた『スター誕生!』(日本テレビ系)では、あえてオーバーオールを履き、フォーク調の曲を歌うことで、素朴な雰囲気を演出したんです」(前同)

■セクシー路線に転向して国民的アイドルに

 作戦は成功。スカウトされ、デビューが決まった2人だが、当初は『スタ誕』同様のフォーク路線でのデビューが決まりかけていた。「『白い風船』というユニット名が候補に挙がっていたとか。そこから方向転換がなされ、『スタ誕』の審査員でもある作詞家の阿久悠氏、作曲家の都倉俊一氏らの手により、肌の露出が多い衣装を着て激しく踊って歌う、あのスタイルが生まれます」(前同)

 イメージの下敷きにしたのは、同じく阿久&都倉コンビが仕掛けた『どうにもとまらない』『狙い撃ち』などの山本リンダだとか。ユニット名はカクテルの名前を引用し、都倉氏が命名した。

 このように大人の観客向けにプロデュースされたピンク・レディーだったが、デビューから間もなく、想定外の層からの人気が一気に爆発した。「もちろん、オジサン層のファンも多かったと思いますが、彼女たちの人気を支えたのは若年層、しかも女の子でした」(前出の記者)

 国民的なアイドルとなったピンク・レディーは、オリコンで5曲連続ミリオンセラー、睡眠時間最大3時間、新曲の振付は初披露当日に2時間で覚えた――といった伝説級の逸話を数多く残している。

■ラン、スー、ミキは「普通の女の子に戻りたい」と解散宣言

 ただし、そんな時代もキャンディーズ人気が落ちることはなかった。「強い風当たりは感じていました。ただ、あちらは阿久さんが強烈な色合いの歌詞で攻めてくるのに対して、こちらは対極にある、生活感の中に品性を持たせた曲を作るようにしていたんです」(酒井氏)

 キャンディーズは、20歳前後の男性の支持が厚く、『全キャン連(全国キャンディーズ連盟)』なるファンの連合組織も誕生した。「普通の女の子に戻りたい」――。キャンディーズがライブ中に突然の解散宣言をしたのは、あまりにも有名だ。「あれは、多忙な毎日からの解放を望んだ本人たちの意思で、半ば強行突破的に宣言したものでした」(芸能プロスタッフ)

 そして、ラン、スー、ミキは78年4月、超満員の後楽園球場でのコンサートを最後に、惜しまれつつステージを去った。

■NHK紅白歌合戦辞退でマスコミのバッシング

 ピンク・レディーの終幕は、これとは対照的だ。「人気が下火になった主因は2つあります。1つは絶頂期である78年の紅白辞退。これでマスコミのバッシングを受け、ファンが白けたんです」(音楽関係者)

 ケイは『あこがれ』(幻冬舎)という著書の中で、「都内の盲学校の生徒たちのためにコンサートを行う約束をしていたが、紅白出場者が決まる前の時点で、スケジュールが空いているのが大晦日の21時以降しかなかった」という秘話を明かしている。結局、そのコンサートは、日テレのチャリティー特番に組み込まれ、紅白の裏番組として放送された。

「2つ目は全米デビュー。日本での露出が減ったのはマイナスでした」(前同) だが、アメリカでの活動自体は成功の部類だった。

「デビュー曲はビルボード37位に。スタジオで水着姿になるなど、お色気が強調された内容だったが、全米ネットのゴールデンタイムに冠番組を持っていた。日本の歌手としては歴代最高の実績と言えます」(同)

 ただし、日本の某有名歌手と熱愛中だったケイが異国での継続した活動を望まなかったことで、再び日本に軸足を置くことになる。しかし、人気回復はならず、80年9月に解散宣言。翌年4月、キャンディーズと同じ後楽園球場で解散コンサートを行ったが……。

「客席に空席が目立ったうえに、当日はみぞれ交じりの雨。あまりに物悲しいものでした」(前同)

■伊藤蘭、田中好子、藤村美樹がカムバックして

 ピンク・レディー解散と前後して、元キャンディーズの伊藤蘭、田中好子がカムバック。藤村美樹も期間限定ながら歌手復帰した。「普通の女の子にはなれなかった」と揶揄もされたが、伊藤は『男はつらいよ』のマドンナを務めるなど、主演級女優として活躍。藤村の曲はヒットした。田中も華のある演技派女優として評価を高めていき、89年に、今村昌平監督の『黒い雨』で各映画賞の主演女優賞を独占するまでになる。「この作品で彼女は初めてバストを披露するなど、役に入れ込んでいた」(映画ライター)

 その後も、再結成は実現しなかったものの、3人の友情は続いた。「伊藤の夫である水谷豊によれば、水谷家に3人がよく集まっていたとか」(前出のスポーツ紙記者)

 しかし、11年に田中が55歳で他界……。葬儀では、彼女が生前に録音した音声メッセージが公開された。「幸せな、幸せな人生でした。(中略)特に蘭さん、美樹さん、ありがとう。2人が大好きでした」 こうして、キャンディーズは永遠の存在となった。

■解散後、映画やグラビアでも活躍

 一方、ピンク・レディーの2人は解散後すぐに、ソロ活動を開始した。「結婚が念頭にあったケイ(増田けい子と改名)はマイペースな印象でしたが、ミー(MIEと改名)は、ピンク・レディーのイメージ脱却を急いでいた」(前出の芸能プロスタッフ)

 プロポーション抜群のMIEは、82年に公開の映画『コールガール』で大胆なベッドシーンを披露。さらに関連写真集でもセクシーショット。片や増田は当時の交際相手と破局。芸能活動を継続していく。なお、彼女も後にグラビアで一糸まとわぬ姿を披露しているが、これは大物女性タレントの肌の露出がブームだった94年のことだ。キャンディーズと違い、ピンク・レディーは何度か再結成が実現している。「不仲説もありましたが、今も、お互いを唯一無二の存在として認め合っているようです」(前同)

 60代になった今も、アイドル時代と変わらないプロポーションを維持しており、昨年末に『日本レコード大賞』(TBS系)に出演した際も、黄金時代と同様のパフォーマンスを見せているのだった。

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