サラエヴォの墓地は、かつてオリンピックスタジアムだった (1/2ページ)

心に残る家族葬

サラエヴォの墓地は、かつてオリンピックスタジアムだった

フィギュアスケートシーズン真っ只中の今、今年の平昌オリンピックから引き続いて日本人選手が大活躍し、ファンを楽しませてくれている。浅田真央選手の引退以後も、続々と実力のある選手が出現している日本のフィギュアスケート界は、4年後の北京冬季五輪に向けて、ますます盛り上がって行くに違いない。そんな中、今から34年前に開催されたサラエヴォオリンピックを覚えている人は、一体どれくらいいるだろうか。そして、その会場が今や廃墟と化し、その周辺は墓地となっている事実を知る人はさらに少ないだろう。平和の象徴であるはずの五輪会場が、なぜ、そのような事になったのか。

■フィギュアスケーターのカタリーナ・ヴィット

私がフィギュアスケートを見るようになったのは、1984年のサラエヴォオリンピックで、東ドイツのカタリーナ・ヴィット選手を見た事がきっかけだった。スラリとしたスタイル、女優のような美しい顔立ち、鮮やかなピンクの衣装で銀盤を華麗に舞うヴィットを見て、私は「こんな綺麗な人、初めて見た」と、テレビの前でひどく感動したものだった。18歳のヴィットはこの大会で金メダルを獲得し、一躍フィギュアスケート界のスターとなった。


■ユーゴスラヴィアの崩壊

そんなヴィットにとっても忘れがたい都市となったサラエヴォは、ユーゴスラヴィアという国の都市だった。それは当時の感覚ではごく当たり前の事であり、華々しく五輪が開催されたたったの7年後に、一つの国家が消滅する引き金となる戦争が起ろうとは、誰が予想できたであろうか。

しかし、1980年に絶対的指導者だったチトー大統領が亡くなると、「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と表現される程の多民族国家であったユーゴスラヴィアの内側では、崩壊への火種が確実に点火されつつあったのだ。

■ユーゴ紛争の中のサラエヴォの悲劇

ユーゴスラヴィアは、スロヴェニア、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国で形成された連邦国家だった。建国以来、国を一つに団結させていた英雄チトー大統領を失うと、それぞれの共和国には独立の気運が高まり始める。

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