妻子はお江戸で人質に!?江戸時代の「参勤交代」って実際はどんなものだったの? (2/3ページ)

Japaaan

脇に避けて道を譲る人々/Wikipedia「大名行列」

天下分け目の「関ヶ原の戦い」の後、徳川家康は秀吉が大阪に大名たちの妻子を人質として住まわせていたのと同じように、江戸に「大名屋敷」を設け、大名の妻と子供を住まわせました。

この際、義務として江戸に住まなければならなかったのは各大名の正室と世継ぎとなる子供だけで、側室や世継ぎではない子供は国許に残っても良いとされていました。

また各大名は、偶数年に江戸に行くグループと奇数年に行くグループに分けられ、隣接した藩の大名同士は意図的に別のグループとされるなどの決まりもありました。

大名の「参勤」と「交代」は原則として1年交代と定められていましたが、これには例外がありました。例えば関東の大名は、参勤交代の周期は1年ではなく半年でした。

また対馬の宗氏・北海道の松前氏・長崎の黒田氏と鍋島氏などは、遠隔地であること、朝鮮半島などとの外交窓口を担当していたことなどを理由に、それぞれ3年~6年に加減されていました。

参勤交代の目的とは?

大名が参勤交代のために江戸と国許間を移動するといっても、現代の私達のようにキャリーバッグ1個だけ引いて…というわけにはいきません。

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