妻子はお江戸で人質に!?江戸時代の「参勤交代」って実際はどんなものだったの? (3/3ページ)

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配下の武士たちを大勢引き連れていくのはもちろんのこと、かかりつけの医師・茶の湯の家元・鷹匠までもが同行し、更には風呂釜(殿様専用)などの備品とそれらを運ぶ人員なども同行したため、時代劇でよく見かける「大名行列」となりました。

更に、大名たちは定められた期日までに江戸に到着しなければならなかったので、その妨げとならないように道路や橋などの整備も行われました。

当然のことながら、これらには多大な費用がかかりました。

なぜ江戸幕府は、このような各大名にとって負担になるような制度を作ったのでしょうか?一説には、大名たちに出費を強いて勢力を削ぎ、謀反などを抑えようとしたといわれています。

参勤交代について定められた「武家諸法度」ではこの他にも「城の修理をする際には届け出ること」「結婚には幕府の許可が必要」など、大名の基本的義務が13ヶ条にわたって定められていました。

その後3代将軍徳川家光の時代には19ヶ条に増え、さらに5代将軍綱吉は「武家諸法度」に改訂を加えて「諸士法度」とし、大名だけでなく旗本にも適用しました。

この武家の「基本法」は、将軍の代替りごとに諸大名に読み聞かせられ、違反した大名は厳罰に処されたというから実に恐ろしいですね。

しかしこの厳しさが江戸時代という太平の世を260年以上維持する基盤の1つとなったことは、間違いないでしょう。

トップ画像:「園部藩参勤交代行列図」(南丹市文化博物館蔵)Wikipediaより

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