超話題のNHK正月時代劇「家康、江戸を建てる」の予習!江戸の金の小判ができるまで(1) (3/4ページ)
太田天洋「朝鮮戦役海戦図屏風」Wikipediaより
この大判を鋳造しまくってホクホクしてたのは京都の金細工師「後藤四郎兵衛」家。江戸時代以前、日本の金貨は完全に京都の後藤家中心に回っていたのです。
不便さに目をつけた家康、「小判」を発明さて、京坂が政治経済のカナメだった時に、体良く関東に追っ払われてしまった徳川家康。せっかく東海の地でブイブイ言わせてたのに、関八州の未開の地に飛ばされちゃったのです。
当時の江戸は大判小判という次元ではなく、人がやっと暮らしているようなドロドロの泥湿地でした。しかしそこは「狸じじい」こと家康。タダでは起きません。「秀吉様〜!僕も江戸で秀吉様が作ったステキな大判を作ってみたいですう」と秀吉にお願いします。
秀吉は「生意気だなコイツ」と思いつつも承諾し、1595年、後藤家から大判作りのスペシャリストたちを江戸に派遣します。そしてその中でも特に若い、一人の優秀な職人に江戸の大判作りは任されました。
その青年の名は、橋本庄三郎(一説に山崎庄三郎)。
さっそく張り切って新天地・江戸で大判の鋳造をはじめようとした庄三郎に家康はストップをかけ、大判作りの代わりに「ある物」を鋳造するように命じます。そのある物こそが、他でもない「小判」でした。