田中角栄「名勝負物語」 第四番 三木武夫(1) (2/3ページ)
この遊学には、生家が当時のカネで5000円を手渡した。“あんみつ”一杯が10銭の当時からすると、今ならゆうに数百万円に相当したのだから、なるほど一人息子ゆえ両親の寵愛を一身に受けて「甘やかされて育った」ことになる。
この頃の時代背景は、政党内閣制が崩壊、満州事変や「二・二六事件」を経て軍部が台頭し、政治への支配力を強めていたが、一方でこれに対抗するデモクラシー復活気運の高まりもあった。折りから、時の林銑十郎内閣が昭和12年3月、議会を解散、三木は待ってましたと言うように、就職することなくこの選挙に無所属で出馬、当選を果たしたのであった。学生服姿での立候補で、30歳当選は最年少、新聞は東京―ロンドン間を飛び、平均時速で世界記録を達成した「神風号」になぞらえ、「神風候補」とはやし立てたものだった。
また、この選挙中に三木は既成政党に向かって「金権体質」などと厳しく批判、政党活動の浄化を叫んでいた。
当選後は日中戦争さなかに次第に高まる日米開戦論に対抗し、日米協調の運動を繰り広げた。ために、昭和16年12月開戦の太平洋戦争中に東條英機内閣が行った「翼賛選挙」では、政府から推薦を外されるなど様々な妨害に遭ったものの、これをはねのけ、落選をすることがなかったのだった。
★「バルカン政治家」の誕生
戦前の三木は、就職経験がなく、実社会を知らずで、まさに怖いものなしの「反骨政治家」を見せつけた。田中はと言えば、地べたを這う苦節の末、自らの建築事務所を開設したのを手始めに『田中土建工業』を設立、昭和17年には年間施工実績全国50位以内にランクインされるなど事業家としての道をひた走っていたのだった。そして、昭和20年の終戦を機に、田中は衆院議員に当選(昭和22年)して政界入り、「政治家三木」と対峙することになる。
田中は民主党、民主自由党と大政党に所属、時の首相・吉田茂の門下に入り、若くして政治家としての頭角を現わしていく。一方の三木は吉田に組せず、一貫して左右の「中道路線」を歩み、協同民主党結成のあと、国民協同党では少数党ながら一党の党首となり、社会党の片山哲と連立内閣を組んで逓信大臣に就任した。