田中角栄「名勝負物語」 第四番 三木武夫(1) (1/3ページ)
「三木をやり手の年増芸者とすれば、福田(赳夫)も大平(正芳)も女学生みたいなものだ。三木がプロなら、福田も大平もアマ」
「太鼓、三味線の音が鳴り出せば、三木は呼びもしないのに飛んでくる。年増芸者ながら尻まで裾をはしょって舞台に上がり、客の前で踊ってみせる。しぶとい。しかし、『芸』があるからアレは生き残る」
幾多の権力抗争を制し、ついには天下を取った“炯眼”田中角栄ならではの三木武夫評である。その意味では、田中の真の権力闘争の相手は「角福戦争」を繰り広げた福田赳夫ではなく、じつは田中を「金権体質」と糾弾し続けた「クリーン三木」を標榜する三木武夫であった。また、その三木の“仮面”との戦いが、田中最後の権力闘争とも言えたのである。
田中はのちに竹下登の田中派分裂の“造反”に遭い、その攻防戦に身を削ったが、これはロッキード事件を引きずっていたゆえの、水は低きに流れるの謂い、時の流れでもあり、真の権力闘争とは言い難かったのだ。
三木と田中の政治、人生に対する「見方」の決定的違いは、その生い立ちにさかのぼる。田中が貧窮の幼少期から這い上がったのに対し、三木は自らの著で子供の頃から「甘やかされて育った」と記したように、世俗の苦労とは無縁であった。三木の生い立ちを記してみると後年の「三木像」がうなづけるのである。
三木は徳島県の香川県との県境近くの村で、明治40(1907)年、農業と肥料を営む裕福な家で一人っ子として生まれた。小学生時代から「自分は将来、総理大臣になる」と“宣言”し、家の前に積まれた米俵の上に立っては、身ぶり手ぶりを交えて演説のマネをしていたくらいだった。
もとより小学校での「話し方大会」でも活躍、県立徳島商業学校に進学すると、迷わず弁論部に入っている。また、この徳島商業では、野球部の集めた資金を校長以下が宴会など遊興費に流用したことに怒り、弾劾ストライキの先頭に立ち、校長もクビになったが、三木も放校、神戸の中外商業への転校を余儀なくされている。中外商業卒業後は明治大学専門部商学科に入学、ここでも弁論部で活躍している。
卒業後は改めて法学科に再入学、アメリカ、ヨーロッパに遊学したあと、昭和12年3月にようやく30歳で明大を卒業したのだった。