戦国時代、甲斐国を統一した武田信虎!追放後の意外なセカンドライフ (2/3ページ)

Japaaan

東京大学史料編纂所蔵「足利義昭肖像」江戸時代

と思えばその一方で、元亀四1573年3月には将軍・足利義昭の命によって南近江の大名・六角(ろっかく)氏と組み、反・信長包囲網の一員として近江国(現:滋賀県)への侵攻を企むなど、異国の地でもなかなかの武将っぷり。

しかし、作戦の要であった嫡男・信玄公が上洛中(同年4月12日)に陣没してしまったことで、反・信長包囲網は空中分解。やがて足利義昭は京都から追放され、足利幕府は滅亡してしまいました。

JR甲斐大和駅前の武田勝頼公像。

京都から逃れた道有は天正二1574年、信濃国・高遠城(現:長野県伊那市)を治めていた信廉公の元に身を寄せ、嫡孫に当たる武田勝頼(たけだ かつより)公と対面したとも伝えられます。

その後、娘婿である松鴎軒常安(しょうおうけん じょうあん)こと禰津政直(ねづ まさなお)の庇護下で信州高遠で暮らし、同年3月5日に81歳で亡くなったそうです。

終わりに

そして現代、甲斐国の中心地である甲府駅を南北に挟み、かつて激しい確執の末に訣別した父子が並び立ったのでした。

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