神社の御神体であった石を他の石と置き換えた福沢諭吉と門松を蹴った欅坂46 (1/4ページ)

心に残る家族葬

神社の御神体であった石を他の石と置き換えた福沢諭吉と門松を蹴った欅坂46

かつてそして今も、我々の住む現世(うつしよ)とは異なる世界「異界」が存在する。「異界」とは人知を超えた「聖なるもの」の世界であり、我々にうかがい知れない「異形」の世界である。しかし現代の合理主義、科学的世界観において「異界」は迷信と一蹴されかねない。現代社会において「異界」は存在するのか、それは必要なのか。

■「異界」との境界

「異界」と現世との間には境界がある。日本書紀によると、「国生みの神」イザナギが黄泉の国へ、亡くなった妻・イザナミを迎えに行くと、イザナミは黄泉の国の穢れによって変わり果てた姿になっていた。驚いたイザナギが逃げると、怒ったイザナミがこれを追ったが、イザナギは現世と黄泉の国の境界である「黄泉比良坂」で「きみは、ここから先には来てはならない」と杖を投げた。これをフナト、クナトという。古事記にも同様の話があるが、このクナトは「異界」と現世の境界であるといえる。

昔の路地の壁にはよく立ち小便除けの鳥居が描かれていた。鳥居に小便をかけることはできない効果を期待してのことだ。この鳥居は人間が触れてはいけない「異界」との境界であった。現代でも鳥居に小便をかける、お墓を蹴とばすなどの行為は、普通の教育を受けた常識ある人ならば憚られるだろう。それは「聖なるもの」への畏敬の念を心に抱いているからである。鳥居や寺門は神域という聖なるものが鎮座する「異界」との境界であり、これをくぐる前に手水で身を清め、一礼をするのが畏敬の念の表現である。

■身近な「異界」

「異界」は身近にも存在する。例えば家を訪ねてきた客は「異界」からの使者である。学校から帰ると家の雰囲気が違うことがあった。居間のふすまが開き、母親から客の訪問を告げられ緊張が走る。いつものように冷蔵庫を開けることはせず逃げるように部屋に飛んでいく。親に呼ばれ「異界」に参入し、使者の前で慣れぬ敬語を使う羽目になったこともあった。
折口信夫(1987~1953)は、このような「客」を神と同義語であるとする「マレビト論」を展開したが、子供にとって見知らぬ客はまさに異形の者であり、得体の知れない怖い存在であると同時に、珍奇な土産物や小遣いをくれる有難い存在でもあった。

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