野村克也「俺と巨人ONの真実」史上最高の名監督が激白
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球史に残る名捕手で名監督が「永遠のライバル」への熱い想いを激白! ボヤキの陰に隠された本心とは!?
――選手として27年、監督として24年、球史に数々の功績を残してきた野村克也氏(83)。昨年末に放送された『プロ野球総選挙』(テレビ朝日系)では、「球史に残る名監督」部門の1位にも選ばれた、まさに“日本球界の宝”だ。そんな野村氏を作り上げたもの、それは「長嶋茂雄」「王貞治」という2人のスーパースターへの“ライバル心”だった。野村氏はONを、どのように見てきたのか? 今、改めて語ってもらった。
野村克也(以下、野村)プロ野球の長い歴史の中で見ても、ONほど天性の才能があって、なおかつ人気までも兼ね備えた選手はいない。そんな2人が同時期に同じチームにいたんだから、そりゃあ、相手チームはたまったもんじゃないよ(笑)。マネしようとしたってできないし、今後もONのような選手が出てくることはないだろうね。彼らが素晴らしいのは、ただ優秀な成績を残すだけではなく、“チームの鑑”だったこと。当時、巨人から南海に移籍してきた選手が、こんなことを言っていたんだ。
「長嶋さんや王さんは、試合でも練習でも絶対に手を抜かない。そんな2人を見て“自分たちは、もっとやらなければ……”と、みんな思っていましたよ」 中心選手が率先して行動すれば、それによって士気が高まるし、チーム力も上がる。そんな彼らの野球に対する真摯な姿勢が、巨人のV9達成につながったのは間違いないよ。
――アマチュア時代からの注目選手で、そのまま巨人のスターとなったON。片や日の当たらないパ・リーグの南海にテスト入団し、必死の努力で一流選手へとのし上がった野村氏。彼らが歩いてきた野球選手としての道は、とても対照的なものだった。
野村 ONはどう思っていたか知らないけど、俺は常に彼らをライバル視して、「負けてたまるか!」という気持ちを抱いていたよ。特に王に対しては、同じホームランバッターとして強く意識していた。王は俺の価値を下げた男だからね。もし王がいなければ、本塁打と打点の通算記録は、今でも俺がトップだったんだから(笑)。俺が作った記録は、ことごとく王に塗り替えられた。シーズン本塁打記録(52本)を破られたときは、悔しさしかなかったな。俺が達成したのは1963年。シーズン最終戦の最終打席だった。その時点で、すでにタイ記録はマークしていたけど、不名誉な記録を残したくないのか、相手投手は全然勝負してこなかった。ボールばっかり投げてきて、さすがに俺も、「この野郎!」って頭に来てね(笑)。ボール球でもお構いなしに、思いっきり踏み込んで打ったんだ。そしたら、弾丸ライナーがスタンドに突き刺さってホームラン。シーズン記録の更新は13年ぶりで、「これで10年は抜かれることはないな」なんて勝手に思っていたら、その翌年だよ。王が、あっさりシーズン55本塁打を打ったのは……。
■王貞治のバッティングは合気道打法
――三冠王を二度達成した世界のホームラン王は、“キャッチャー野村克也”にも火をつけた。戦うリーグは違えども、野村氏は王氏を抑えるべく、徹底的に研究を重ねた。
野村 王のバッティングをひと言で言うなら“合気道打法”だね。バッターボックスに入っても、配球や球種は一切読まない。相手のピッチャーの一挙手一投足にすべての神経を集中させ、来た球をただ打つのみ。ホームランバッターに対する配球のセオリーは、長打警戒の外角低め。でも、王の場合は、それが危険な攻め方になるんだ。王は、外角からボール1、2個分、中に入ったところを最も得意としていて、外角に投げても、ちょっと甘くなれば必ず打たれてしまう。つまり、外角攻めは一番リスクがあるし、王のペースにハマってしまうことにもなる。
だから、王はインコース主体で攻める。でも、ストレートじゃダメ。ストレートと見せかけて、ボールにちょっと変化をつける。今で言うカットボールみたいな球が有効だったね。そうすればボールを引っ掛けて、たいてい凡打。仮にバットの芯に当たっても、だいたいファールになるから、カウントを稼ぐこともできた。
王の弱点は、実は彼のプロ入り1年目から見抜いていたんだよね。オープン戦で初めて対戦したとき、外角からちょっと甘く入ったボールを、いきなりバックスクリーンに持っていった。その一方で、内角は打ちづらそうにしていたんだ。その後、王は一本足打法に変えて、内角をさばけるようになった。一本足にしたのは大成功だけど、弱点の傾向自体は王が引退するまで変わらなかったね。
だからこそ、オールスターで王と勝負するときは、いつも心の中で、こう叫んでいたものだよ。「セ・リーグのピッチャー諸君、王は、こうやって攻めるんだ!」
誰もマネしてくれなかったけどね(笑)。
■長嶋茂雄は史上最高の天才バッター
――実際に現役時代、オールスターの舞台で、野村氏は王氏を27打席ノーヒットに抑えている。王氏には同じスラッガーとして闘志を燃やした野村氏だが、長嶋氏に対しては、また違った意識を持っていたという。
野村 大学野球のスター選手だったし、長嶋のことはプロ入り前から知っていたよ。もともとは南海に入るはずだったしね。当時の南海には、立教大学で長嶋の先輩にあたる大沢啓二さんがいた。球団からの指示で、大沢さんはパイプ役になり、長嶋をずっと勧誘していた。それで、一度は南海入団が決まったんだよね。そのとき、もう俺はチームで4番を任されていたけど、「長嶋になら4番を譲ってもいい」と思っていたよ。その頃はまだライバル意識なんてなかったし、向こうはバリバリの野球エリート。こちらは田舎者のテスト生上がりだからね。別に、俺は何番でもよかった。そしたら、ある日、テレビを見ていたら、長嶋が巨人入りを発表していてね。「なんじゃ、そりゃ!」って驚いたよ(笑)。もし、あのとき、長嶋が南海に入っていたら、その後のプロ野球界は、まったく違うものになっていたかもしれないね。
長嶋は史上最高の“天才バッター”だよ。初めて真剣勝負をしたのは、彼がプロ2年目の1959年の日本シリーズ。「なんというスイングスピードだ……」というのが率直な感想だったな。それまで見てきた日本選手の中でもトップと言えるくらい、スイングが鋭くて速かった。幸い、そのときには南海のエース・杉浦忠が絶好調で、球威も素晴らしかったから、長嶋にはそれほど打たれなかった。それでも、“普通のピッチャーだったら太刀打ちできない……”という強烈な印象は受けたね。
それ以降、日本シリーズやオープン戦、オールスターで対戦するたび、長嶋の攻略法を探した。でも、結局は見つからなかった。だって、何を考えているか分からないんだもん(笑)。「ここが弱い」とか「ここをよく打つ」とか、傾向が出てこない。同じコースでも抑えられたり、打たれたりするんだ。“ささやき戦術”もデータ分析も通用しなかった。長嶋は、ただ来た球を打っているだけ。たとえ体勢を崩したって、ヒットを打てちゃう。普通は体勢が崩れたら、当たったとしても、せいぜいバットの先とか根っこ。でも、長嶋は芯で捉えるんだから。本当に天才としか言いようがないね。
来た球を打つという点では王も同じだったけど、タイプは全然違う。王とは何度もバッティング談義をしたことがあるし、“次元が違う”とも思ったものだけど、長嶋とは一度もない。したって無駄なんだよね。何も考えていないんだから(笑)。
■ヤクルト監督時代、巨人の長嶋監督を口撃
――ボヤキでならす野村氏は、特にヤクルト監督時代、たびたび巨人の長嶋監督を厳しく“口撃”してきた。しかし、そんな野村氏は、自身の「歴代ベストナイン」に長嶋氏を選出。実は“野球人”として高く評価しているのだ。
野村 現役時代の長嶋は、まさに“真のプロフェッショナル”だったと思う。プロ野球は、日本中のファンがいるからこそ成り立つ、いわばサービス業。ファンが求めているのはひいきのチームの勝利だから、チームが一丸となって勝利を目指すのが大前提だけど、長嶋はファンに対して常に、それ以上のことを心掛けていた。
ある年のシーズンオフ、長嶋と日米野球で一緒にプレーしたんだ。今とは違って、当時の日米野球は20試合くらい組まれていて、長嶋はほぼフル出場することになっていた。そんな長嶋に同情して、「シーズン中に出ずっぱりだったんだし、日米野球くらい休んでもよかったんじゃないか」と俺が言ったら、彼は、「お客さんが俺たちを観に来てくれているんだ。試合に出るのは当然だよ」と答えたんだよね。
確かにお客さんにとっては、めったにない日米野球観戦のチャンス。巨人の国民的大スターを自分の目で観ることができるのも、最初で最後かもしれない。長嶋はそれを理解して、シーズン中と変わらない最高のパフォーマンスを披露することで、ファンの期待に応えていたんだよ。本当に、長嶋は“ミスタープロ野球”の名にふさわしい存在かもしれないね。
――野村克也氏のインタビューは次回も続く!
のむらかつや……1935年、京都府生まれ。54年、テスト生として南海ホークスに入団。戦後初の三冠王をはじめ、数々の記録を打ち立てる。80年に現役引退すると、3球団で監督を歴任。「ID野球」で各チームを立て直した。まさに球界が誇る“智将”。