田中角栄「名勝負物語」 第五番 小沢一郎(3) (2/2ページ)
また、人材としても「当たり年」とされ、この選挙で初当選を飾った議員の多くが、その後、第一線で活躍することになる。やがて首相になる羽田孜と森喜朗、ラツ腕で鳴らした幹事長で首相候補の声もあった梶山静六、衆院議長や幹事長をやった綿貫民輔、無所属当選で追加公認を受け、厚相など大臣を歴任した後に衆院副議長となる渡部恒三、社会党からは、やがて党首となり衆院議長も務めた土井たか子などであった。
★厳しく接した田中
さて、初当選を飾った小沢ではあったが、田中はある程度、距離を取って小沢と接していたようだった。次のような小沢の言葉がある。
「たしかに本当の息子のように接してはくれたが、こと政局などに触れるところでは、こちらが口をはさんでも、まったく相手にしてくれなかった。とくに、私を含めての二世議員には、厳しすぎるほど厳しかった。甘ったれるなといった、突き放す姿勢を感じた」
そうした小沢の2回目の当選は、昭和47年12月の総選挙であった。この年7月、田中はシ烈な「角福総裁選」を制し、首相の座に就いていた。前任の佐藤栄作首相の退陣表明を受け、田中は総裁選前の5月の時点で、すでに佐藤派から独立、衆院議員41人、参院議員42人の計83人で田中派を旗揚げしていたのである。5月9日、向島の料亭『いな垣』で、この田中派による事実上の“田中内閣樹立決起大会”が開かれた。
このとき乾杯の音頭を取らされたのが、まだ1年生の小沢であった。これは、「軍士」として派内で一目置かれていた幹部格の木村武雄のサシガネであった。田中が「秘蔵っ子」として小沢を遇していることを知ったうえでの木村の“計らい”だったのである。
これを受け、こうした場面で見得を切るなど派手な言動がニガ手な小沢も、さすがに気持ちの高ぶりを抑えられなかったか、精一杯の大声を広間に響かせたのだった。
「田中内閣の樹立を目指し、頑張りましょう。乾杯!」
これを機に、小沢のそれまで遠慮がちだった物事への対応が、時に血の気の多さを見せ始めるのである。活発な派閥の動きにいまひとつ燃えない、先輩議員の竹下登と対峙することも辞さなかったのだった。
(文中敬称略/この項つづく)
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小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材49年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『愛蔵版 角栄一代』(セブン&アイ出版)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。