仇討ちに決起した女武者「坂額御前」の武勇伝!鎌倉時代の建仁の乱で活躍(中) (2/3ページ)
早くも出鼻をくじかれた長茂らは、腹いせに留守番の家来たちと一戦交えてから天皇陛下(土御門天皇)のおわす仙洞御所へ乗り込み、四方の門を閉じて立て籠もりました。
藤原為信『天子摂関御影』より、土御門院の御影(肖像)。鎌倉末期~南北朝初期
「畏れながら申し上げます!無実の罪で殺された梶原景時殿の仇を討つため、鎌倉におる逆賊どもを成敗する勅許(ちょっきょ。天皇陛下の許可)を下さいませ!」
しかし、長茂の訴えも虚しく勅許は下らず、このままでは勝ち目がないため、朝政らが戻って来る前に清水坂(きよみずざか。現:京都市東山区)辺りに潜伏。ゲリラ戦に持ち込んだのでした。
越後武者の意地を見せ、城長茂かく戦えり朝政らの放った飛脚によって、幕府に長茂謀叛の報せがもたらされたのは2月3日、鎌倉中が大騒ぎとなったそうです。
混乱の中、朝廷では「縁起が悪い」と思ってか2月13日に改元が行われ、正治三年から「建仁元年」となったことから、長茂の謀叛は後世「建仁の乱」と呼ばれるようになりました。
この期間中、長茂らは山中に隠れ潜んでゲリラ戦を展開、神出鬼没のヒット&アウェイ(攻撃してはすぐ逃げる)を繰り返して鎌倉方の朝政らを悩ませましたが、やがて徹底的な捜索によって大和国吉野山(現:奈良県と和歌山県の県境にまたがる山岳地帯)に潜伏していることが発覚。