仇討ちに決起した女武者「坂額御前」の武勇伝!鎌倉時代の建仁の乱で活躍(中) (3/3ページ)
吉野山。長茂たちはどこに潜んでいたのでしょうか。
2月22日、もはや退路を断たれた長茂らは鎌倉方と決戦に臨み、あえなく玉砕。長茂らの首級は京の都に晒され、2月29日には長茂の甥で小太郎資盛の弟に当たる小二郎資家(こじろうすけいえ)と小三郎資正(こさぶろうすけまさ)、そして奥州藤原氏の生き残りとして京に潜伏していた藤原四郎高衡(ふじわらの しろうたかひら)も討ち取られ、京の都から梶原景時のシンパ勢力が一掃されたのでした。
(※機を見るに敏なる公家たちは、景時が殺された時点でとっくに見限っています)
後に続く者たち長茂ら討死の報せは間もなく越後にいる小太郎資盛と坂額御前の元へ届けられました。
「叔父上!小二郎!小三郎!」
号泣する小太郎を、坂額御前は叱咤します。
歌川豊国『古今名婦傳』より、坂額御前(板額女)肖像。文久二1862年
「小太郎殿……かくなる上は、一矢報いましょうぞ!」
「おう叔母上!やらいでか!」
かくして小太郎らの号令一下、城一族は越後国鳥坂(とっさか。現:新潟県胎内市)に城を構えて立て籠もり、大いに奮戦するのですが、この続きはまた次回に。
【続く】
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