熊本県荒尾市に500年近く遺っている「妙見石室」という祠を調べてみた (3/5ページ)
そうした中、「妙見」は神格化された北極星または北斗星の「本地仏(ほんじぶつ)」として、仏教の「菩薩」と合体したのだ。それゆえに、その「描かれ方」も時代の変遷に伴って、様々な形を取ってきた。
荒尾市の妙見石室の「妙見」の場合は、髪が長く、袍(ほう。丈の長い上着)を着て、その下に胸甲を身につけているという、中世期の「妙見」に典型的な「童子形」で表現されている。
■石室が作られた理由
また、信仰対象として、このような石室が作られた理由は、八代に大陸から妙見神が来訪したことばかりではなく、荒尾市を治めた小代氏にも関連があると考えられる。
小代氏はもともと、武蔵国入間郡(現・埼玉県)小代出身で、「関東武士」の代表格である武蔵七党の中の児玉党に属していた。源頼朝の平家追討戦に参加した際に軍功を挙げたことから、はるか離れた西海道(さいかいどう。現・九州)の野原庄の地頭職に任ぜられた。それ以後、この地を代々治めた。南北朝時代、戦国時代と覇権争いは続いたが、1577(天正7)年頃には1300町を領するほどの力を誇っていた。
■妙見信仰が荒尾市に伝わった経緯
しかも「妙見」信仰は特に中世以降、北斗七星の第7星が「破軍星(はぐんせい)」とされることから、千葉氏(下総国)・相馬氏(下総国相馬郡)・大内氏(周防国)などの有力な武士の間で、弓矢の神として尊崇を集めていた。そうした影響から、小代氏の出身地である武蔵国入間郡周辺には、例えば、源頼朝による造営と伝えられる我野(あがの)神社(埼玉県飯能市)など、「妙見」を祀った大小さまざまな寺社や路傍の石像が存在する。それゆえ、もともとの信仰基盤に加え、小代氏の移動と伴い、「武士の守り神」としての妙見信仰が新たな形でこの土地にもたらされたのではないか。
■500年たった今でも遺っていることの意味
元々は中近東に起こった、北極星・北斗七星の「神」が、時と場所を超え、流れ流れて、はるか彼方の日本、熊本県荒尾市の石室の中に現在、ひっそりと佇んでいる。そしてその「神」は、500年近く、戦国時代から平成が終わりつつある現在に至るまでの歴史的光芒、それに伴う多くの人々の誕生と死をじっと見守ってきた。