雛飾り、本来は左(向かって右)が男雛。現在は右に座する関東雛が優勢なのは何故?

Japaaan

雛飾り、本来は左(向かって右)が男雛。現在は右に座する関東雛が優勢なのは何故?

京雛と江戸雛の違いって?

実は現在ほとんどの雛飾りが、日本古来とは違うと知っていましたか?男雛(お殿様)と女雛(お姫様)の左右の位置。本来、男雛は左(向かって右)に配置されていました。

それは御所における玉座の位置にならっています。

しかし現在一般的なのは関東雛といって、右(向かって左)に男雛が座っています。それに相対して向かって右側に男雛が座っているものは京雛と言われます。

そもそもなぜ日本では、左は右より格が高いとされてきたのか。それは、天皇が北を背に南に向かって鎮座したときに、左方向の東から日が昇るから。

この考えを【左上右下(さじょううげ)】といいます。余談ですが、劇場の上手(かみて)と呼ばれるのも左(向かって右)ですね。

それがなぜ雛飾りでは逆転してしまったのか。

そこには大正天皇が関係されているといわれており、明治時代、主に西洋の国際儀礼である「右が上位」の考え方が日本でも取り入れられ、大正天皇が即位の礼で洋装姿で皇后陛下の右に立たれたことで、この風習が広まったとされています。

大正天皇が海外に忖度し、国民も大正天皇に忖度したということでしょうか。

また、京都には宮中の生活を模した竃(かまど)や台所用品の飾りも見られます。江戸や大名家の雛は、姫の輿入れの嫁入り道具を模した物が多く、そこに役割の違いも感じられて興味深いです。

男雛は左(向かって右)にあります 「雛人形」一竜齋国盛(安政四年)

明治では内裏雛が左右逆に『千代田の大奥 雛拝見』揚州周延(明治29年)

雛人形の歴史、ざっとおさらい

雛人形は貴族の人形遊び、「ひいな遊び」から始まったとされています。いつしかその人形が身代わりや分身とみなされ、節分である「上巳の日」と結びついて、子どもの無病息災の儀式となりました。そんな雛人形の変遷をざっと紹介します。

現在も行われる流し雛の原型、形代(かたしろ)

人の形に切った切り紙です。または木や紙や草が使われが使われました。映画での陰陽師が呪術や式神に使い、記憶に残っている人も多いのではないでしょうか。

平安時代になると、人々は3月上巳の日(3月はじめの巳の日)に人形(ひとかた)を作り、それを身体になでつけたり息を吹きかけたりして穢れや災いを移し、川や海に流しました。

これは現在も行われる「流し雛」と呼ばれるもの。儀式を行うのは、室町時代ごろに3月3日に定着しました。

「日本雛祭考」有坂与太郎(昭和六年)

「天児」「這子」

「天児(あまがつ)」「這子(ほうこ)」と読みます。これも平安時代に形代から生まれた一つの形態で、子どもが生まれた時に贈られました。身代わり人形として三歳を迎えるまで枕元に置かれました。

『源氏物語』の「薄雲」などに天児のことが記されています。

天児『日本雛祭考』有坂与太郎(昭和六年)

立雛(たちびな)

直立した二体の雛人形です。天児が男子、這子が女子とみなされ、二体で一対の原型となったと言われています。人形という文字が「ひとがた」から「にんぎょう」と呼ばれるようになったのは、中世の頃(鎌倉時代と室町時代を合わせた4世紀頃)からと言われています。

役者が様々な人形に扮している様子です 『見振十二思ひ月 三月 かみ雛 宦女 はだかにんぎょう 犬はり子』/弘化-嘉永頃/一勇齋國芳画

紙雛(かみびな/かみひいな)

紙雛は、その名の通り身体を紙で作ったものに衣装を着せた物で江戸初期に始まりました。

衣装は和紙か布地で作り、室町風俗を写したもの。男雛は烏帽子で袴に小袖、女雛は袖を前に重ねて細幅の帯姿の形でした。平面的な造りなので自立することは出来ず、雛壇や屏風に立てかけて飾りました。

寛永雛(かんえいびな)

寛永(1624年から1645年)に誕生。立ち雛に代わり、座った姿の「座り雛」に変化しました。15センチほどの小さなお雛様で、頭と冠は一木造りで着物から手先はつけません。

お顔は平安時代の京風。段飾りは1段もしくは2段の低い台に屏風のみと、収納しやすいものでした。

「日本雛祭考」有坂与太郎(昭和六年)

元禄雛(げんろくびな)

元禄(1688~1703)時代に作られたもので、寛永雛に似ていますが一回り大きくなりました。寛永雛と同様に男雛の頭は冠と一体の木彫、女びなは両手先がつき、衣服は十二単に変化。ただし冠は無く、黒髪の垂髪(下げ髪)が描かれました。また、紅花染めの平織りの袴を着けました。

享保雛(きょうほびな)

享保(1716~1736)時代に京都で生まれて各地に広まりました。

雛は36センチを超えるなどすこぶる大きくなりましたが、享保6年の幕府お触書により、大きさを8寸(24センチ)以下と定められました。いわゆる「贅沢禁止令」の一つですね。

男雛は束帯(男子が参内する際に着用した正式の服装)で太刀を差して笏を手にし、女雛は平安時代の正装である唐衣(からぎぬ〈平安時代の十二単の一番上に着る衣〉)、五衣(いつつぎぬ〈下重ねの5枚の衣 〉)姿に。また、糸でできた髪の毛が作られ、女雛が冠を被るようになりました。

ちなみに前述の御触書により、今度は芥子雛というミニチュア化した精巧できらびやかな雛人形が流行ったとか。ただでは転ばぬ職人魂ですね。

古今雛(こきんびな)

江戸後期に江戸で完成された雛人形で、享保雛と同じく男雛は束帯、女雛は十二単です。一番の特徴は目にガラス玉をはめ込む象眼が初めて取り入れられたこと。

また現在でよく見られる7・8段もの派手な段飾りは江戸後期の古今雛の潮流を受け継いでいるそうです。

上段に古今雛と下段に紙雛(筆者撮影)

ちょっと変わったお雛さま

老夫婦の「百歳雛」
百歳まで共に歩むことを願い、男雛と女雛が老夫婦のお姿です。

太夫雛
遊女の太夫は、将来の職業としては相応しくない気もしますが、太夫は高い教養を兼ね備え位の高い者を相手にしたので、そのような教養のある存在になるように、との願いが込められているそうです。

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「雛飾り、本来は左(向かって右)が男雛。現在は右に座する関東雛が優勢なのは何故?」のページです。デイリーニュースオンラインは、雛人形日本人形日本の伝統行事ひな祭りカルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る