大谷吉継は友のために、鳥居元忠は主君のために…それぞれの想いのために関ヶ原の戦いで散った2人の武将たち (2/3ページ)
2人の仲がより深くなったのは天正15年(1587)に大坂城で行われた茶会でした。
当時、吉継はある病気を患っていました。何の病気かは諸説あるのですが、感染する病気として周りから思われていました。
そのため、吉継の次に茶碗に手を付ける人は飲んだふりをして次に回していました。
この光景を見た吉継は何とも言えない気持ちになったに違いありません。しかし、三成だけが茶碗に入った茶を飲み干し、さらにもう一杯を所望しました。
この三成に思いに感動した吉継はこの先何があっても三成につき従うと決めたそうです。
その13年後に吉継は負けるとわかっていても三成の覚悟に賛同し、病気のため足が動かないので神輿に乗って出陣。
西軍の小早川秀秋の裏切りに合いながらも奮戦し、三成に想いを託すように関ケ原の地に散りました。
徳川家康と鳥居元忠の絆!「わしのために死んでくれぬか?」元忠は家康の人質時代から近習として苦労を共にしてきました。今川氏から独立した後、元忠は旗本先手役という合戦では一番先に敵陣に突撃していく精鋭部隊の1人となりました。
鳥居元忠像/Wikipediaより
人質時代から約50年の間多くの合戦と苦楽を共に過ごしていく内に元忠のことを家康は家臣ではなく友や幼なじみと思っていたかもしれません。
しかし、元忠は家康のことを主君として見ていました。
それを頷ける要因は感状を一切受け取らなかったことにあると思います。感状とは手柄を立てた者に主君が評価を加えるいわば、成績表なもので他家に再仕官する際に非常に有利なものでした。