徳川吉宗の視点でかんたん解説!8代将軍継承問題と大奥のドロドロ派閥抗争 その2

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徳川吉宗の視点でかんたん解説!8代将軍継承問題と大奥のドロドロ派閥抗争 その2

前回に引き続き、のちの暴れん坊将軍こと徳川吉宗を視点の中心に据え、8代将軍継承問題と6代将軍・家宣の正室・天英院VS側室・月光院という大奥史上最大級に泥沼化した派閥抗争についてご紹介します。

前回の記事はこちら。

徳川吉宗の視点でかんたん解説!8代将軍継承問題と大奥のドロドロ派閥抗争 その1

8代将軍継承問題勃発

7代将軍・家継の死によって、家継の生母・月光院派が優位だった天英院VS月光院の構図は一旦白紙に戻ったかに見えました。

周延「千代田之大奥 歌合」Wikipediaより

しかしそうではありませんでした。むしろどちらも世継ぎのいない白紙状態に戻り、もう一度同じ土俵に立った事で事態は急展開します。天英院VS月光院の戦いは、「8代将軍の継承」に戦場を移したのです。

先述の通り、8代将軍候補は天英院派の尾張徳川家の継友と、尾張より格が落ちる紀伊徳川家の吉宗。継友には天英院が、吉宗には月光院がバックに付いて派閥争いとなりました。家格だけで比較すると、この時点では天英院が優位に立った事になります。

吉宗、半端ないって!

しかし吉宗はただの吉宗ではありませんでした。彼は半端ない敏腕の持ち主だったのです。吉宗は紀伊藩主に就いてからというもの、隠れ赤字だった紀伊藩の財政改革に取り組み、得意の倹約術でマイナス経営から一転、多額の貯蓄を作るという大成功を収めました。

その功績は日本中で話題を呼んでおり、幕府内でも家格に関係なく「次期将軍には吉宗を推そう」というムーブメントが起こっていました。天英院派だけは継友を推していたのですが、吉宗は根回しが上手く、他でもない天英院の父・近衛基煕の抱き込みに成功。いよいよ孤立した天英院はこのままでは自分の地位が危ういと考え、速攻で吉宗派に推し変します。

享保元年(1716)、こうして大奥の後ろ盾を得た吉宗はシンデレラのように紀伊の片隅から駆け上がって33歳で8代将軍に就任。同時に長く続いた天英院と月光院の戦いは幕を閉じたのでした・・・。

子を失った母同士、仲直り

将軍継承問題を巡っての長きに渡る抗争を終えた天英院と月光院は、互いに大切な子供を失った1人の母親として分かり合える部分があったようで、お互いを慰め合うかたちで仲直りしたとされています。

今、2人は増上寺に仲良く埋葬されています。

参考文献:堀口茉純「TOKUGAWA15」草思社

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