人間しか行わないとされている弔いや葬送は反自然行為?人間は反自然的存在? (3/4ページ)
■「生きている」そのものの価値
2007年 9月24日 ひとりの少女が3歳5カ月の命を閉じた。2005年12月 当時2歳8カ月の中村有里ちゃんは、風邪による急性脳症が元で脳死状態となった。その後も有里ちゃんは、家族や医師らの、献身な介護、治療により成長を続けた。脳死といっても背も髪も伸びることは意外と知られていない。何より温かい体温は少女が紛れもなく「生きている」ことを示していた。
この「社会に貢献しない」「健常者の負担にしかならない」「生きているだけ」の存在を家族も関係者も愛し続けた。動物に非ず、人間として、弱き者死すべしの自然の摂理にNOを突きつけたのである。
仏教では生きとし生けるものはすべて等しいとした上で、弱肉強食の動物の世界を「畜生道」と呼び、「餓鬼」「地獄」と並ぶ「三悪道」としている。「畜生」という言葉は動物愛護の精神からは差別用語になるかもしれないが、知的障害者を「生きるに値しない命」と切り捨てた犯人の男は、人の道を捨て、畜生道に堕ちているといわざるをえない。
■自然主義への疑問
筆者はいわゆる「自然」にたいする過度な信仰に懐疑的である。自然に帰れ、自然を守れなどというが、果たして人間は自然と同化できる存在ではない。エコロジーとか自然保護など、言葉の響きは美しいが、自然とはそれほど甘いものではないことは、繰り返される自然災害を見ればわかることではないか。
人間は反自然的行為によってここまで進化した。中でも「弱肉強食」という自然の鉄則に対し、人間は意識を高めていくことで克服してきた。
その象徴のひとつが葬送である。ヘーゲルが言うように、愛する者が旅立ったあと、残された人は最後に葬送という義務を果たさなければならない。愛しい我が子を、親を、鳥獣の餌や土の養分になどできようか。アンティゴネーがなぜ死刑になることも厭わず、兄を弔ったのか。愛する者の遺体を自然の暴力から護り、人間の尊厳を護る。それが人間の義務なのだ。
有里ちゃんの家族や関係者は、有里ちゃんを当然ながら自然に渡すことなく弔った。一方、相模原市の犯人の男は、自然の理に従い、死体を打ち捨てて逃げたのだった。