追悼・萩原健一 ショーケンと水谷豊に学ぶ“男の生き様”

日刊大衆

追悼・萩原健一 ショーケンと水谷豊に学ぶ“男の生き様”

 今に語り継がれる名作ドラマ『傷だらけの天使』(日本テレビ系)で、萩原健一(以下、ショーケン)と水谷豊(66)が共演したのは1974年のこと。劇中、「アキラ」「アニキ」と呼び合い抜群のコンビネーションを見せた両者だが、男として、俳優としての生き様は実に対照的だ。

 ショーケンは、1950年、団塊の世代よりわずかに遅れて生まれている。17歳のときにザ・テンプターズのボーカルとしてデビューし、スターの座を手に入れた。しかし、その過程で所属事務所が敷いたレールの上を走ることに疑問を感じるようになる。

 そして、デビューから2年あまりで解散を申し出る。すでにバンド内には不協和音があったが、他のメンバーは解散に反対した。ショーケンは、2003年に『週刊ポスト』(小学館)のインタビューで、当時をこう述懐している。

〈バンドを維持すれば給料を貰えるから我慢するという。子供のくせにサラリーマン化しちゃってたんだ。でも僕は、そんな生き方は断じて嫌だったんだよね〉

 結局、テンプターズは解散。新バンド・PYGでの活動を経て、俳優に転向したショーケンにとって出世作となったのが、72年『太陽にほえろ!』(日本テレビ系)だ。

 当時はまだ22歳。俳優としては駆け出しながら、スタッフにさまざまな提案をして、作品の質を上げる姿勢を見せていた。また、納得がいかないことがあると、天下の石原裕次郎にも噛みついた。

「一番お金を取っているのに、一番遅く来て、一番先に帰るってのは、ないんじゃないの?」これを笑って受け流し、以後もショーケンをかわいがったという裕次郎の度量の広さもアッパレである。

 この『太陽〜』第1話で犯人を演じた俳優こそ、当時20歳の水谷豊だ。後に『傷だらけ〜』で合流する2人だが、そこには、こんな逸話がある。

「当初、アキラ役が決まっていた火野正平さんが、スケジュールの都合で出演NGに。そこで、萩原さんが共演歴のある水谷さんをスタッフに推薦したといいます」(テレビ関係者)

 深作欣二ら大物監督が次々に演出した『傷だらけ〜』について、後年、ショーケンはテレビ番組で、このように語った。「大変な監督さんばかりで、水谷さんも僕も常にアガっていた。だからこそ、突っ張ってやっていたんです」

 ショーケンの持つ都会的な不良性は、視聴者に支持された。また、続く『前略おふくろ様』(日本テレビ系)では、一転して純朴な青年役が魅力だった。ただし、その不良性にはマイナス面もあった。

「喧嘩っ早いうえに、役にのめり込むあまり、精神的に不安定になりがちだった。結果的に、それが酒やドラッグへの依存、4度の逮捕につながったんでしょう」(芸能誌記者)

 反面、そんな危険な男は、女にモテた。モデルの小泉一十三、いしだあゆみ、ヘアメイクの女性、そしてモデルの冨田リカと結婚は4度。さらには、江波杏子、范文雀、樋口可南子、藤真利子、倍賞美津子、さらに美人バイオリニストの前橋汀子ら、錚々たる美女たちとの交際が伝えられた。

 10年にインターネット番組に出演した際には、稼いだお金を、「全部、女のアソコにつぎ込んでしまいましたね」と、自嘲した。

 一方、水谷豊はトラブルやスキャンダルとは無縁の俳優生活を送った。映画『青春の殺人者』(76年)など、不良性のある役で高評価を受けるが、78年に『熱中時代』(日本テレビ系)の教師役でアウトロー路線から脱却する。

 低迷期もあったが、その間も、2時間ドラマで刑事などを演じた。そして、その延長線上に、『相棒』(テレビ朝日系)があった。

 水谷は、取材を受けるたびに、こう発言している。「今、何ができるのか、何をやるのがベストなのかを考えて、ずっとやってきた」

 私生活では、一度結婚に失敗しているが、89年の再婚後はずっと妻一筋。テレビ出演時、愛妻である女優の伊藤蘭を、なんと呼んでいるのかを問われ、照れくさそうに答えた。「僕は……“ランさん”と呼んでいます」

 4月8日発売の『週刊大衆』では、昭和と平成を駆け抜けた二人の名優の名言を掲載しているほか、追悼番組で明らかになった、ショーケンの愛妻・富田リカさんへの“遺言”も紹介。男気あふれる内容は、ぜひ心に留めておきたい。

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