松尾芭蕉に西郷隆盛、実は「忍者だった」日本の偉人たち
情報収集、要人暗殺、破壊工作……。あらゆる特殊任務をこなした忍びの者たち。最新の調査で判明した虚構と現実が交錯する“忍者の真実”を一挙公開!!
今回は日本の歴史を変えた、実在した忍びの者を紹介する。史料から明らかになった正体をあなたはどれだけ知っているか?
■「伊賀忍術を身に着けた天下の大泥棒」石川五右衛門(1560頃〜1594)
“義賊”として知られる天下の大泥棒・石川五右衛門の実像は、京都・伏見の一画に大きな屋敷を構え、昼は籠に乗り街道を往復して追いはぎを働き、夜は屋敷に忍び込み強盗を働いた大悪人だった。
伊賀の石川村で生まれ、15歳で父母を亡くした五右衛門は伊賀流忍術を習得。その後“抜け忍”となり、京の伏見を拠点に多くの手下を束ねる大盗賊となったといわれる。五右衛門の素性を示す資料は乏しいが、石川五右衛門という盗賊が実在し釜茹でにされたことは事実とされる。
■「 諸国を放浪した“隻眼の剣豪”」柳生十兵衛(1607〜1650)
小説や映画でも有名な柳生十兵衛三厳の父・柳生宗矩は、幕府の大目付(現在でいう警察庁長官、CIA長官)だった。その父は十兵衛に諸国の動静を探らせていたという。十兵衛は柳生新陰流の奥義とともに、柳生忍群の用いた忍術もマスターしており、忍び働きはお手の物だったはずだ。
十兵衛が放浪を始めて以降、筑前黒田藩、肥後加藤藩、伊予蒲生藩といった徳川家の脅威だった豊臣恩顧の大名家で、お家騒動や改易が相次いでいるのは偶然ではないはずだ。
■「信長軍を苦しめた伊賀忍者のリーダー」百地丹波(生没不詳)
伊賀の三大上忍(忍者の頭領)のひとり、百地丹波は伊賀南部の頭領。織田信長との2度の戦い(天正伊賀の乱=1579年、1581年)で丹波は伊賀忍者たちの総指揮官として徹底抗戦。夜襲や奇襲といった忍者特有の戦法で織田軍を苦しめ抜いた。
1回目の戦いは大勝利を挙げたが、2度目は苦戦を強いられ部下の忍者たちと柏原城に籠城し抵抗するも敗れた。この時の戦いで、丹波は討ち死にしたとも、城を脱出して紀伊(和歌山)の根来(同地も忍者の里)へ逃れたとも伝わる。
■「探検家の正体は “幕府の隠密”」間宮林蔵(1775頃〜1844)
樺太探検で知られる間宮林蔵だが、実は林蔵は幕府の隠密(忍者)であったようだ。幕府の密命を受け全国各地を調査した林蔵だが、歴史に残る“樺太探検”もロシアや中国など隣国の動きを調べるための隠密行動だったという。伊能忠敬から測量を学んだ林蔵は、蝦夷地(北海道)から樺太、また満州にも渡って調査した。
林蔵は変装の達人で、物乞いなどに変装し情報収拾を行なったという。徳川幕府と敵対し、入国審査の厳しかった薩摩藩領内への潜入に成功したとの記録もある。
■「俳人を隠れ蓑にした“公儀隠密”」松尾芭蕉(1644〜1694)
“俳聖”とも称される俳人・松尾芭蕉は、実は“幕府の密偵”とも言われる。忍者の里である伊賀出身。弟子の曽良と全国を旅しながら諸藩の様子を偵察し、江戸に報告していたようだ。
有名な『奥の細道』によれば、1日に40~50kmという常人では考えられない距離を移動していたことが分かる。俳句を詠むための旅にしては異常とも思える日程だ。しかも景勝地とは関係ない石巻港や瑞巌寺など、仙台藩(伊達家)の重要拠点にも立ち寄って執拗に見て回ったことが記されている。
■「 薩摩藩主の命を受けて密事を働く“御庭方役”」西郷隆盛(1828〜1877)
西郷隆盛は薩摩藩主・島津斉彬の命を受けて動く御庭方役だった。御庭方役とは、表向きは庭の手入れなどをする役目だが、その実、藩主の側人として仕え、いざ命を受ければ幕府や他藩の情報収集、密事、交渉などといった特殊任務も担っていた。要は藩主の目となり耳となるスパイのようなもの。西郷は薩摩藩お抱えの忍びの者だったというわけだ。写真に撮られることを極度に嫌ったというのも、隠密行動の足枷になる顔バレを防ぐためだったとする説もある。
歴史を支えた影の功労者・忍者たち。素性を隠し任務を全うする姿には、ロマンが詰まっている。
※『EX大衆』2018年9月号より