江戸時代の蘭学者・高野長英の逃亡を助けた越後の和算家・小林百哺(2) (1/2ページ)
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江戸時代の蘭学者・高野長英の逃亡を助けた越後の和算家・小林百哺(1)さて、無事に江戸に帰った長英ですが、嘉永3年(1850年)10月30日、とうとう江戸の青山百人町(現在の東京・南青山)に潜伏していたところを何者かに密告され、町奉行所に踏み込まれて捕縛されてしまいました。何人もの捕方に十手で殴打され、駕籠で護送する最中に絶命したと伝えられています。
その人物的評価は、勝海舟をして「高野長英は有識の士」と言わしめるほどでした。
現在、長英の生家があった岩手県奥州市水沢(旧・水沢市)では、長英は三偉人(高野長英、後藤新平、斎藤実)の一人として扱われ、地元の小学校では総合的な学習の時間で、その生涯、功績を学んでいるそうです。
百哺のほうはといいますと、幕命によって越後高田藩に台場を立てることになった際に、その設計・増築の指揮を執りました。また、慶応元年の長州征伐や明治戊辰戦争時には、高田藩の砲術・測量方として従軍し、軍功を称されました。
地元で藩校が開設されると、数学教師として教鞭を奮いました。時代が変わり、明治の世になると、地租改正などで百哺の門下生が各地で活躍したと伝えられています。百哺は老後も子弟の教育に尽くし、明治二十(1887)年、八十四歳で死去しました。
現在、上越市にある百哺が開塾した牙籌堂(げちゅうどう)跡には石碑が建てられ、地元の人たちによって大切に守られています。また、同市の五智国分寺境内には百哺の功績を讃える顕彰碑が建てられています。
高野長英と小林百哺。その最後は対照的だった二人の天才ですが、その心の根本には、学問を通じて最後まで通じる部分があったのかもしれません。