歴代総理の胆力「山県有朋」(1)「陸軍の父」と呼ばれ、「軍閥の生みの親」とも言われた (2/3ページ)

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およそ国として、主権線及び利益線を保たぬ国はございませぬ」の言葉のあとに、「主権線」とは国境であり、「利益線」とは山県のなかでは当時の朝鮮を想定したものと思われ、大陸からの侵犯を封じ込めるとの意味合いをにじませているのだが、当時としては「主権線」「利益線」を守ることの不可欠をあえて説いた山県の軍略家としての炯眼(けいがん)が窺える。

 そのうえで、都合2次の内閣を組織した山県ではあったが、内政はともかく外交では見るべきものはなかった。内政では教育勅語の発布、政党の独断性を殺(そ)ぐための官制改革、地方自治制度の確立、あるいは予算の確保を優先しての地主の地租増額改正、続発する労働運動や農民運動を抑えるための治安警察法の制定など、次々と腕力を振るい、諸施策を断行していった。

 しかし、外交はと言うと、“逃げ”の姿勢が目立った。例えば、伊藤や黒田が苦労の末、失敗した条約改正も勝算が立たずと見るや、交渉の凍結を決めてしまったといった具合だった。政権の“汚点”は、さらさらご免ということのようだった。「外国語が不得手だったことから、外交は積極的になれずで逃げていた」との見方もあったのだった。

 一方、山県は総理の座を降りて以後、なお元老として強い影響力を振るったことも特筆に値する。

 第1次内閣を総辞職したあと第2次伊藤博文内閣の司法大臣に、その後、枢密院議長、日清戦争では第1軍司令官として朝鮮へ出征している。また、第2次内閣では、事実上、内閣を直系の桂太郎に任せて参謀総長に就任するなど、軍略家として圧倒的な影響力を誇ったのであった。まさに、天下に怖いものナシの元老・山県と言えた。

 例えば、日露戦争で旅順攻略に手間取る乃木希典(のぎまれすけ)将軍を批難、たびたび火鉢やテーブルを叩いて激怒したともされている。将兵の尊敬を集めた乃木に対して激怒をあらわにするのだから、元老としての専横ぶりが彷彿とされるということである。山県が参謀総長を降りたあとの当時の新聞は、「山県公の権力は陸軍大臣より重く、参謀総長より大なり。政府といえども彼の命に抗するに能わず。今日、武断政治の弊その極に達す」と批判の声を挙げたのだった。

「歴代総理の胆力「山県有朋」(1)「陸軍の父」と呼ばれ、「軍閥の生みの親」とも言われた」のページです。デイリーニュースオンラインは、週刊アサヒ芸能 2019年 5/30号内閣総理大臣山県有朋小林吉弥伊藤博文社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
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