歴代総理の胆力「山県有朋」(1)「陸軍の父」と呼ばれ、「軍閥の生みの親」とも言われた (1/3ページ)

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歴代総理の胆力「山県有朋」(1)「陸軍の父」と呼ばれ、「軍閥の生みの親」とも言われた

 明治・大正期を通じ、これほど畏怖された権力者はおらず、「富国強兵」を推進した明治国家建設のトップリーダーとして君臨したのが、この山県有朋であった。

 生まれは長門国(ながとのくに)(山口県)、初代内閣総理大臣の伊藤博文同様、身分は最下級とされた「卒族」の出であり、山県はこれをバネに徳川身分制の打破と明治維新参画につながる足がかりとした。吉田松陰の「松下村塾」で学ぶ。時に松陰いわく、「群才がある」として人をまとめ上げる能力は買ったものの「大識見、大才気があるわけでもない」との評価だった。そうした中で、山県は努力と運の良さを生かし、やがては位人臣(くらいじんしん)を極めることになる。

 奇兵隊を率いて東上、戊辰戦争の功などで陸軍中将に。参軍した西南戦争では、西郷隆盛に投降を勧め、これにより勲一等旭日大綬章を受けた。参謀本部長兼参議を経て、第一次伊藤博文内閣の、続く黒田清隆内閣の内務大臣を務めたあと、黒田が条約改正問題で行き詰まったことで、第一次山県内閣を組織することになる。52歳である。この間、ヨーロッパ留学で近代軍政を学び、それまで単なる戦闘集団だった武士の集団を、近代的な戦闘能力の高い組織につくり変えたのが白眉だった。天皇直轄の参謀本部の設置、統帥権独立、徴兵制の実現などでこれを支えた。これをもって、山県はのちに「陸軍の父」と呼ばれ、「軍閥の生みの親」とも言われたのだった。

 一方、「陸軍の父」と呼ばれ、戦闘能力の高い組織づくりに成功した山県ではあったが、軍人としての評価は高くなく、むしろ軍略家のそれが高かったのが特徴的であった。それを明らかにしたのが、明治23(1890)年12月の第1回帝国議会の貴族院での、山県のわが国初の総理大臣の施政方針演説だった。

 すなわち、山県はその演説にある「国家独立、自営の道に二途あり。第一に主権線を守護すること、第二には利益線を保護することである。

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