鬼太郎の原型を作ったのは危険人物?ゲゲゲの鬼太郎の原型「ハカバキタロー」と紙芝居作家たち【3】 (3/5ページ)
小説家志望や画家志望も多く、話題の中心は芸術論でした。
この頃の喫茶店は文化サロンであり、伊藤らもジャズやタンゴが流れる店で、文学や映画や紙芝居の未来について語り合ったのです。かといってまじめな話ばかりでなく、伊藤を中心に、文学論は冗談のやり取りへと脱線していきました。

そんな伊藤正美は、どのような経緯で紙芝居作家になったのでしょうか。
伊藤は兵庫県神戸市の小さな鉄工所の一人息子でした。ちなみに水木しげるが「鬼太郎」を書き始めたのも神戸。キタローと鬼太郎は、神戸の地に縁があるようです。
その神戸で育った伊藤正美は文学青年でもありました。昭和7(1932)年に雑誌の短編懸賞小説に応募し、佳作に選ばれます。
これでプロの作家になろうと決意した伊藤は、家出して上京します。画家である友人と一緒でした。

ところが東京へ来てみると、小説を書くあてはないどころか不況で職につけません。そんななかで友人の画家が、富士会という紙芝居製作所で絵を描く仕事をみつけてきます。
紙芝居製作所とは、いわば紙芝居の元締めです。作家や画家に紙芝居を書かせ、出来た作品を紙芝居屋に貸し出しました。映画に例えると製作会社と配給会社を合わせたような存在です。
その富士会は画家に、絵だけでなく脚本も付けよと条件を出します。すぐに使える紙芝居を書けるなら採用ということだったのでしょう。そこで画家は、伊藤に脚本を書いてもらいます。
すると富士会主の五島金之輔は脚本を気に入り、伊藤だけを採用しました。友人がどうなったかわかりません。ともかく伊藤は紙芝居の脚本を書く仕事を得ました。