鬼太郎の原型を作ったのは危険人物?ゲゲゲの鬼太郎の原型「ハカバキタロー」と紙芝居作家たち【3】 (4/5ページ)
おまけに伊藤は生涯の伴侶を得ます。五島の妹と出会い結婚することになったのです。
こうして紙芝居の脚本作家となった伊藤は、昭和8(1933)年、民話『飴屋の幽霊』をモチーフに『ハカバキタロー』を書きました。デビュー後すぐヒット作を生み出したのです。その後も『河童小僧』などヒット作を書いていきます。
また、昭和12(1937)年に十数社の紙芝居製作所が統合して出来た「大日本画劇株式会社」においては、編集部員として活動しました。
加太こうじの著書には伊藤正美の名が多く登場します。仲間のうちでも特に親しかったようです。だからこそ戦後、水木しげるに『ハカバキタロー』の思い出を語り、水木が「鬼太郎」を書くことに繋がったのかもしれません。
時代は紙芝居から絵物語、漫画へ戦後の昭和21(1946)年、伊藤は、義理の兄でもある五島金之輔が創立した紙芝居製作所「画劇文化社」に参加します。画劇文化社は伊藤と辰巳を中心におき、新たな紙芝居を製作しました。伊藤は経営者の1人にもなっています。
画劇文化社は『冒険活劇文庫』(明々社)にも関わります。『冒険活劇文庫』は昭和23(1948)年に創刊された絵物語雑誌で、主に画劇文化社系の紙芝居作家が、絵物語を執筆したのです。そして画劇文化社ルートで、紙芝居屋がこの本を売ることもありました。
絵物語とは、紙芝居作家でもあった山川惣治の『少年ケニヤ』に代表される児童向け出版作品。昭和20年代に大ブームとなりました。『冒険活劇文庫』においては、永松健夫『黄金バット』や小松崎茂『地球SOS』が大ヒットしています。
『冒険活劇文庫』の人気は数年続きますが、昭和25(1950)年に『少年画報』と改題され、漫画雑誌へと変化していきます。
子どもの娯楽の中心は、紙芝居から絵物語を経て、漫画へと移ろうとしていました。
手塚治虫が登場し、ストーリー漫画の時代がやって来たのです。
時代が変化するなか、伊藤は昭和29(1954)年に、実演者(紙芝居屋)、制作貸元、作家・画家、教育紙芝居関係者を集めて「文化クラブ」を結成します。機関誌を発行するなど、紙芝居の作り手とファンのために働きました。