古来日本では「日傘男子」は日常的風景だった。幕府が男性の日傘を禁じたこともあったほど (2/4ページ)

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室町時代になり、和紙に油を塗ることで更に強度を増した雨傘が発明されたといいます。

安土桃山時代の文禄年間(1592~95)には、祭礼の時に子供が用いる五色に彩られた日傘が盛んとなります。これも魔除けの意味合いが強いでしょう。

江戸時代の四代将軍・徳川家綱から五代将軍・綱吉の1673~88年には、京都・大阪・江戸で花鳥や唐草などの模様を描いた「絵日傘」の生産が盛んに。これが婦女子の間で大流行。

現代の絵日傘


18世紀初頭(八代将軍・綱吉)の頃には、大坂で「番傘」が登場。さらに、青色の紙を張った「青日傘」が医師や僧侶が使用するようになり、それが婦人の間にも流行しました。

番傘はお店の屋号や店を表す「判」を入れていた「判傘」が転じて「番傘」になったと言われています。番には「粗末なもの」という意味が含まれますので、大量生産された安価な傘という意味合いに転じたのかもしれませんね。

歌川広重「名所江戸百景 日本橋通一丁目略図」

贅沢である!と幕府が禁止

寛政期に入ると、天保の大飢饉後に続く「寛政の改革」で緊縮ムードが世を覆ったのか、日傘の製造や使用が制限され始めます。

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