美しすぎた男装のイケメン女剣士・中沢琴の幕末奮闘記【下・帰郷編】 (2/4ページ)

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西郷隆盛。Wikipediaより。

通常、和議の場における敗軍の将士は武装を解かれた丸腰で力関係を受け入れさせられるのが習いでしたが、明治元1868年9月27日、庄内藩の本拠である鶴ヶ岡城に入った西郷は逆に庄内藩士の帯刀を許し、逆に自分自身を含めた味方は丸腰となって交渉に臨みました。

「お互い元より怨みなどなく、それぞれ信じる正義ゆえ、あるいはいっときの都合で敵味方に分かれたまでのこと。まして戦の勝ち負けは時の運、たとい敵であろうと武門たる尊厳を損なわぬように遇せよ

勝利で驕り高ぶる部下たちを厳しく戒め、どこまでも謙虚な至誠を示した西郷に多くの庄内藩士が感動し、後に西郷を慕ってその教えを学びに行く者が絶えなかったそうです(※西郷の教えは『西郷南洲遺訓』にまとめられ、今日の私たちに薫陶を与えてくれます)。

西南戦争。小林永濯「鹿児島新報田原坂激戦之図」明治十1877年10月

余談ながら、同じ東北でも会津藩を攻略した薩摩軍は敗者を徹底的に辱め、戦死した会津藩士の亡骸を葬らせず、野犬やカラスの喰い散らかすに任せるなど、冷血非道の処断に及んだため、後に西郷が挙兵した西南戦争では、少なからぬ庄内藩士が西郷軍に与した一方、会津藩士はことごとく薩摩憎しで官軍に加勢したそうです。

ともあれ庄内藩に対する処分は寛大で、一度は改易(かいえき。

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