武士が小細工を弄するな!鎌倉武士の鑑・畠山重忠の高潔なエピソードを紹介 (3/5ページ)

Japaaan

坐を動かずといへども、左手を捧げて、則宗が拳刀(にぎりがたな)を膊(かひな。腕)に取り加(そ)へ、これを放たず、その腕を早く折りをはんぬ。よつて魂惘然(ばうぜん)として、たやすく虜(いけど=生け捕)らるるなり……」
※『吾妻鏡』正治二1200年2月2日条

重忠は座ったまま左手一本で則宗をねじ伏せ、その腕をへし折ったそうで、恐らく執務中に「何だかあっちが騒がしいな」と感じていたら、偶然こちらへ倒れ込んできた盛通を刺し殺すべく、則宗が躍りかかった勢いを活かしての妙技だったと考えられます。

盛通にとってはまさしく天佑神助(てんゆうしんじょ。天や神の助け)を得た思いだったことでしょう。

……右腕をへし折られてしまった則宗はその激痛に失神してしまい、あっけなく取り押さえられて侍所別当(長官)である和田太郎義盛(わだの たろうよしもり)に引き渡されて一件落着……と思ったら、その後もう一悶着が生じたのでした。

ちょっと待った!盛通の恩賞についた物言い

さて、2月6日の論功行賞において、則宗を生け捕った手柄で盛通が恩賞に与ろうとしていた時の事です。

かねがね盛通の事を快く思わない真壁内舎人秀幹(まかべの うどねりひでもと)という御家人がおり、彼がこんな事を言い出しました。

「則宗の生け捕りは波多野殿の手柄ではない!偶然近くに居った畠山殿が取り押さえたのだから、恩賞は畠山殿に賜るべきだ!」

【原文】
「……則宗を生虜る事、さらに盛通が高名(かうみやう)にあらず。重忠虜るの由これを憤り申す……」
※『吾妻鏡』正治二1200年2月6日条

この時、原文では秀幹は盛通に対して「阿黨(あとう)の思ひ」をなしたと書いてありますが、阿黨とは「阿(おもね)り黨(くみ・党)する」ことであり、この文脈だと盛通に取り入るために発言したとも読めます。

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