たった一人で織田軍を足止めした歴戦の武者・笠井肥後守高利の壮絶な最期【後編】

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たった一人で織田軍を足止めした歴戦の武者・笠井肥後守高利の壮絶な最期【後編】

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たった一人で織田軍を足止めした歴戦の武者・笠井肥後守高利の壮絶な最期【前編】

たった一人で織田軍を足止めした歴戦の武者・笠井肥後守高利の壮絶な最期【中編】

親子二代にわたり甲斐の戦国大名・武田氏に仕えて数々の武勲を立ててきた笠井肥後守高利(かさい ひごのかみたかとし)

高野山持明院蔵「武田勝頼公肖像」、Wikipediaより。

時は天正三1575年5月21日、長篠の合戦で大敗した主君・勝頼公を死地より逃がすため、追撃してきた織田方の猛将・滝川左近将監彦右衛門一益(たきがわさこんのしょうげん ひこゑもんかずます)の軍勢に、たった一人で敢然と立ち向かいます。

己が恃みは一筋の槍のみ、果たして甲州武者の心意気を存分に示せるでしょうか?

甲州武者の真骨頂、当たるを幸い大暴れ!

さて、いよいよ高利を取り囲んでの乱戦となりました。

「いざ参れ!……冥途の土産に武田の槍を馳走してやるわい!」

槍一本でただ一人、敢然と大軍に立ち向かう笠井肥後守高利(イメージ)

流石は歴戦の甲州武者。勝頼公より拜領せる千手院の槍を巧みに操り舞わして敵の手やら腕やら斬り飛ばし、向こう脛や足腰を打ち払い、まるで羊羹でもつまむように次々と喉笛を貫いていきます。

次第に屍の山がいくつもそびえ、辺りに血の河が流れると、高利は死に狂いの呵呵大笑。

「ほれ如何した滝川左近!早う相手せんと、そなたの兵はみな我が槍の錆となろうぞ!」

予想外の手こずりに苛立つ一益に、一族の猛将・滝川源右衛門助義(たきがわ げんゑもんすけよし)が名乗り出ました。当年三十六歳の男盛りです。

「御屋形様。ここはそれがしにお任せ下され!」

「おぉ、源右衛門ならば心強い。彼奴が首級を上げて参れ!」

「御意!」

鞭声颯爽と駆け出した源右衛門は、騎馬のまま高利に迫り、呼ばわりました。

「……うぬが、先ほどより我らが行く手を妨げる肥後ナニガシか。一息に圧(へ)し折ってくれるわ!」

「吐(ぬ)かしおれ!黙って聞いておれば、何奴(どやつ)も此奴(こやつ)も肥後々々(ひごひご)と、こちとら竹(≒籤―ひご)じゃねぇ……と言いたきところなれど、筋は真っ直ぐ、撓(しな)れど折れぬ強さこそ、甲州武者の真骨頂じゃ!

とて呵呵大笑。もう何人倒したでしょうか、それでもなお衰えぬ口上に、源右衛門は呆れるやら感心するやら。

「その減らず口もこれまでじゃ!我が名は滝川源右衛門助義、その方(ほう)相手にとって不足なし……いざ!」

猛然と迫りくる滝川源右衛門助義(イメージ)。

「……おう、参れ!」

騎馬のまま猛然と迫る源右衛門の槍先を睨み据え、高利は槍を構えました。

壮絶な最期!滝川源右衛門と相討ちに

基本的に、攻撃は高所から繰り出す方が有利。低所で受けるほど不利となります。

馬上から槍を繰り出さんと迫り来る源右衛門に対して、徒歩でそれを受けねばならぬ高利は、圧倒的に不利な状況。

しかし、ここで一歩でも退けば最後。勢いは完全に源右衛門ひいては滝川軍のものとなり、最早食い止めることなど叶いません。

そもそも決死の覚悟を決めた以上は、退いて命を永らえる理由もなく、踏みとどまって戦うまでです。

(そうじゃ……絶体絶命と思うたが、よう考えてみれば、ただわしが死ぬだけではないか)

顧みれば武士の本領たる槍が一筋、確かにこの両手で握られている。

(わしはまだ、戦える。死ぬの生きるのと慌てたところで、活路はいつも前にしかない……!)

激戦の疲れからふと心に生じた迷いを完全に振り切って、高利は槍を構え直しました。

「何としてでも喰いとめる!」……決死の覚悟を決めた笠井肥後守高利(イメージ)。

(よければ槍の餌食……先に怯んだ方が負けじゃ!)

これまで幾多の戦場で数多の敵と相まみえ、命のやりとりをしてきた中で、この賭けに負けたことはありませんでした。

己が槍を信じよ。己が武を信じよ。己が天命を信じよ。守るべき大義を信じよ。

永年にわたり研ぎ澄ましてきた槍の穂先のその先の、敵の命さえ見透かした向こうには、いつも「武田家の御為」すなわち「君民幸(さきわ)う甲州の夢」がありました。

一点の疑いもなく大義を信じ、駆け抜けてきた高利だからこそ、敵は怯み屠(ほふ)られ、尊い命を軍神(いくさがみ)に奉げて来たのです。

しかし、此度の敵である源右衛門もまた、高利と同じく「織田家の御為」すなわち「天下布武」の大望を信じ、それを微塵も疑いませんでした。

……かくして両者一歩も譲らず、互いの槍で互いを貫き合って源右衛門は馬上より転げ落ち、高利は即死して大文字に果てたのでした。

その場でこそ辛うじて武運をつないだ源右衛門でしたが、高利から受けた槍の傷は深く、翌日息を引き取ったため、実質的には相討ちと言えるでしょう。

エピローグ・戦国武士たちが遺したもの

かくして高利が大いに時間を稼いだ甲斐あって、勝頼公は這々(ほうほう)の体で甲州へと転がり込み、滝川勢は撤退せざるを得ませんでした。

その後、勝頼公がどうなったか、その末路については別稿に委ねますが、高利にまつわるエピソードをあと二つ紹介したいと思います。

今回、主君を助けるために壮絶な討死を遂げた高利ですが、高利の十二代祖先に当たる南北朝時代の武将・小山田太郎高家(おやまだの たろうたかいえ)もまた、同様の最期を遂げていたのでした。

湊川の戦いで奮闘する新田義貞と身代わりに駆けつける小山田太郎高家。Wikipediaより。

時は建武三1336年5月25日、湊川の合戦において敗走する新田義貞の身代わりとして足利尊氏の軍勢を果敢に食い止め、討死したと言われ、一説にはそのことを予てより伝え聞いていたという高利は、祖先と同じく「主君の御為」に尊い命を奉る栄誉と奇しき因縁を感じていたのかも知れません。

そしてもう一つ、高利が奮っていた千手院の鎗ですが、相討ちの場所に失われたかと思いきや、笠井家重代の宝として、後世に伝えられているそうです。

落合芳幾『太平記英雄傳 大谷刑部少輔吉隆(吉継)』江戸後期

武田家の滅亡後、高利の子である笠井孫右衛門慶秀(かさい まごゑもんよしひで)大谷刑部少輔吉継(おおたに ぎょうぶのしょうゆうよしつぐ)に仕えます。

その頃、刑部と親交のあった井伊兵部少輔直政(いい ひょうぶのしょうゆうなおまさ)が「高利の息子が刑部の下に仕えている」と知って、戦場から人づてで入手した槍を手土産に、孫右衛門に面会を申しこみます。

「……そなたのお父上は、武者なれば斯(か)くありたしと誰もが思う立派な最期にござった……」

井伊直政・騎馬像。赤く染めた鎧の色と、特徴的な兜から「赤鬼」と恐れられた。

後に武田軍から引き継いだ「赤備え」部隊を率いて徳川家康の天下取りに活躍する「赤鬼」兵部は、高利の遺児を自分の配下に招き入れることで武田遺臣の結束を固めたい意図もあったのか、熱心に孫右衛門を説得。

話を聞いた刑部も快く送り出してくれたので、晴れて孫右衛門は兵部に仕えて懸命に奉公し、その家運を今日まで伝えていくのでした。

人は一代、名は末代……限りある命を大義に奉げた武士たちの生き方は、数百年の時を越えて、私たちの胸に熱い思いを訴えかけてくるようです。

【完】

※参考文献:
笠井重治『笠井家哀悼録』昭和十1935年11月
皆川登一郎『長篠軍記』大正二1913年9月
長篠城趾史跡保存館『長篠合戦余話』昭和四十四1969年
高坂弾正 他『甲陽軍鑑』明治二十五1892年

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