夏フェス常連だった電気グルーヴ、ピエール瀧が知名度を上げたのは“苦手なジャンル”? (1/2ページ)

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夏フェス常連だった電気グルーヴ、ピエール瀧が知名度を上げたのは“苦手なジャンル”?

 今年も各所で夏フェスが行われている。残念だったのは、大型ロックフェス『フジロックフェスティバル2019』に登場を予定していた電気グルーヴの出演が、ピエール瀧の逮捕により取りやめとなったことだろう。相方の石野卓球が出演したが、電気グルーヴとしての出演はない。今年は活動30周年にあたる記念の年だっただけに、出場が叶わなかったのは残念であろう。

 近年はピエール瀧の俳優、タレントとしての知名度が高かったため、逮捕でミュージシャンとしての電気グルーヴを初めて知った人も多いのではないだろうか。電気グルーヴは1991年にメジャーデビュー。新人時代から瀧は電気グルーヴの知名度向上担当であったといえる。

 1994年にリニューアルされた『ポンキッキーズ』(フジテレビ系)への出演時は「子供嫌いなのに子供番組に出ているピエール瀧」と一部では驚きの声もあったという。さらにダウンタウンの音楽番組『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』(同)では瀧の「楽器の弾けないミュージシャン」ぶりがイジられていた。

 この頃の電気グルーヴは、バラエティ番組にも出演しており、どこか“色物”として見られていた部分がある。そんな彼らが本格派のミュージシャンとして注目されるのが1997年リリースの『Shangri-La』であろう。現在も彼らの代表曲となっている。

 1997年は電気グルーヴにとって転機の年であり、同年に行われた第1回フジロックでは、台風接近により2日目が中止となる。この年はタイトル通り、富士山のふもとが会場であり、電気グルーヴは荒天の1日目に登場し、名曲『富士山』を披露。ここでも“楽器の弾けない”ミュージシャンとしてピエール瀧が富士山のかぶりものをしてパフォーマンスを披露した。1999年には北海道で初めて行われた邦楽主体のフェス、『ライジングサンロックフェスティバル』にも出場している。

 このころになると徐々に石野卓球の名前が海外でDJとして知れ渡るようになる。1999年にはじまった屋内レイヴイベント『WIRE』などはよく知られているだろう。なお、電気グルーヴは2001年から2004年まで活動休止をするが、その前の最後のライブの場も、この『WIRE』(西暦下2ケタがつき『WIRE01』)であった。

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