プロレスラー世界遺産 伝説のチャンピオンから未知なる強豪まで── 「力道山」“日本プロレス界の父”の企画力と先見の明 (2/2ページ)

週刊実話



 「いまだにいろいろ言われる木村政彦戦にしても、ああいう“ガチンコ”を見せることが自身や日プロにとって将来的にプラスになるという、絶対的な読みがあったのではないか」(同)

 プロレスが真剣勝負ではない何かしらの“裏”があるというのは、実はかなり初期から言われていたことで、木村戦はそういう世間の認識をひっくり返したからこそ大きな話題となったのだ。

 当時の記録をひも解くと、観衆は力道山の勝ちっぷりに熱狂するよりも、どこか「引いていた」ようで、これはすなわち世間の思うプロレスとは別物であったからだろう。

★朝鮮半島出身の出自を明言せず

 プロレスを一過性のブームに終わらせなかったことも、力道山の功績である。1955年の木村との頂上決戦後、ファンから「クライマックスが終わった」とみなされ、一時的にプロレス人気が低迷することになった。しかし、力道山は’58年に世界王者のルー・テーズを招聘し、プロレス人気を盛り返す。

 テーズ戦後もまた世間のプロレス熱は冷めるのだが、その翌年には画期的なワールド大リーグ戦の開催により、人気復活に成功している。

「まだ1ドル360円の時代、大物外国人選手たちを招聘するために、多額のドルを用意することは決して容易ではなかった。アントニオ猪木は大金を積んでモハメド・アリ戦を実現しましたが、力道山は10年以上も前にそれを継続的にやっていたわけです」(同)

 ジャイアント馬場がアメリカ遠征で稼いだドルを、そのまま借りて外国人選手のファイトマネーに充て、結局、返済しなかったという逸話もある。

 力道山は実業家としても、マンションやナイトクラブ、常設会場のリキ・スポーツパレスなどの経営に着手。ビジネス成功の裏には、朝鮮半島人脈によるところもあっただろうが、力道山はそれを活用しながらも、決して自身が朝鮮半島出身であることを公言しようとしなかった。

 大相撲時代の番付表には朝鮮出身とされていたので、事情を知っていた人も少なくなかったはずだが、それでも頑なに隠し続けたのは、そうすることが人気を保つために不可欠との思いがあったからに違いない。

 もし、力道山が凶刃に倒れることがなければ、その後はどんな戦いを繰り広げたのか、引退の花道はどう飾ったのか、引退後にはいったいどんな手法でプロレス界をプロデュースしていたのか、いずれも興味が尽きないところである。

力道山
***************************************
PROFILE●1924年11月14日〜1963年12月15日。日本統治下の朝鮮出身。
身長176㎝、体重116㎏。得意技/空手チョップ。

_文・脇本深八(元スポーツ紙記者)
「プロレスラー世界遺産 伝説のチャンピオンから未知なる強豪まで── 「力道山」“日本プロレス界の父”の企画力と先見の明」のページです。デイリーニュースオンラインは、スポーツなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る

人気キーワード一覧